マイクロバブル博士の「マイクロバブル旅日記」

本「旅日記」で、マイクロバブルの科学と技術に関する難しい情報をやさしく解説し、深く考えることによってマイクロバブルの物語をよりおもしろくします。また、それをゆかいに展開させていきます。これが、あたかも燎原の火のように、それこそ国境を超えて、どこまでも広がり、国民生活と産業に深く分け入ることで、マイクロバブル社会が形成されることをめざします。

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博士が愛したマイクロバブル

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不易流行 奥の細道も、新潟から北陸道を南下して金沢に向かう旅路になりました。 松尾芭蕉にとっては、最大の難関だった北陸横断を終え、ほっと安心しながら酒田へ、そして平地を伝って、新潟から市振に到達してきたのでした。 そして、お隣の出雲崎の宿屋で、「荒海や 
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(37)奥の細道(23)人生観の実行』の画像

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佐渡島 新潟から市振へ、芭蕉らは、途中で宿探しにも困りながら、南に下っていきました。 途中、海の向こうに佐渡島を思い浮かべながら、出雲崎の宿屋において、次の名句が詠まれたといわれています。 おそらく、荒海で隔てられた、佐渡島の向こうの満点に天の河が、観え
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(36)奥の細道(22)佐渡』の画像

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新潟 酒田を旅立った芭蕉らは、一路新潟に向かいました。 この折、芭蕉は体調を崩し、その道程は平道であったにもかかわらず、おだやかではなかったようでした。 ようやく、新潟に辿り着いたようでしたが、今度は宿泊先が見つからず、日も暮れて途方に暮れていました。 
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(35)奥の細道(21)新潟』の画像

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母の命日 本日、9月1日は母の命日です。 家内が、仏壇に果物を添えてくださいました。 母は、1994年に逝去、享年70歳でした。 若いころから洋裁が得意で、それで我が家の家計を支えていました。 大学受験の際には、家族は、揃って金のかからない大学に進むことを望んで
『微笑みの哲学(5100回記念)(5)母の命日と風鈴』の画像

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老いと微笑みの哲学(4) 昨年末から、執筆を開始した論文の第六報の草稿を書き終えたところですが、今回は、その執筆速度を減じて、やや余裕を持ちながら筆を進めてきました。 そのせいでしょうか? いつもは、この執筆の影響で本ブログ記事が大きく滞ることになっていま
『微笑みの哲学(5100回記念)(4)』の画像

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酒田 芭蕉は、奥の細道のクライマックスとなった東北横断を済ませ、その第二コースの終着地である酒田に到着し、ここで弟子たちとの句会も和やかに開催し、8日という長逗留を行いました。 酒田は、東北地方最大の商人たちの街であり、北海道から京や江戸に物資を運ぶ船便
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(34)奥の細道(20)酒田』の画像

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鶴岡 芭蕉一行は、月山や鶴岡の羽黒山五重塔を訪れて、その信仰のなかの「静寂」の奥の極みに触れました。 その後、その静寂から離れ、ほっと安堵しながら鶴岡の長山氏宅へと向かいました。 これは、東北横断という最大の難関を突破し、どこか安らぎを感じた第二コースの
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(33)奥の細道(19)鶴岡』の画像

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出羽三山 立石寺を後にして、元禄2年(1689)6月1日(新暦7月17日)に、芭蕉らは新庄に向かい、そこで宿泊しました。 近くに清水が湧き出る泉があると聞き、そこを訪れて、次の句を詠まれています。 水の奥 氷室尋ぬる 柳哉 その水を飲まれて、あまりにも冷たくて美味
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(32)奥の細道(18)出羽三山』の画像

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尾花沢から新庄へ 最上川は、山形の米沢北へ酒田に向かって流れており、単独県内における日本最大の長さを有する川です。 古くから、この川を利用しての輸送がなされていました。 たとえば、尾花沢の鈴木清風は、そこで紅花問屋として財をなしていきましたが、尾花沢で栽
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(31)奥の細道(17)最上川』の画像

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山寺へ 紅花の思い出を残しながら、芭蕉らは、奥の細道の第二コースのハイライトである山寺(立石寺)へと向かいました。 10日間の尾花沢滞在で、心身の疲れを癒し、すっかり元気を回復しての山入りでした。 尾花沢から山寺駅までは約40㎞、徒歩で約8時間の工程でした。
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(30)奥の細道(16)立石寺』の画像

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山刀伐(なたぎり)峠越え 3日間の大雨で、封人の家に留まっていた芭蕉らは、山賊が出るという山刀伐峠に向かいました。 出かける時に、その山賊に備えて、封人の家の大家が屈強な若者をガードマンを付けてくれました。 鑿虱に悩まされ、馬の尿の臭いで苦しめられた芭蕉
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(29)奥の細道(15)尾花沢』の画像

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第二ルートへ 江戸深川から平泉まで、これが松尾芭蕉の奥の細道の第一ルートでした。 ここまでは東北地方の東側であり、いわば開けた都市や地域があったことから、その旅は比較的容易なものでした。 また、その各地には芭蕉の弟子や知人がいて、それらの人々とも親しく交
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(28)奥の細道(14)第二ルート』の画像

一関の「二夜庵」 松尾芭蕉一行は、江戸を出発して44日目の1689年5月13日に平泉を訪れています。 一関から平泉までは約7.3㎞ですので、徒歩で2時間のところにあります。 その一関では、金森家に宿泊し、気に入ったようで、ここに2泊したことから「二夜庵」ともいわれてい
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(27)奥の細道(13)義経堂』の画像

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松島では一句も詠まなかった 松尾芭蕉は、松島を見物した後に、次の文章を遺しています。 「松島は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥ぢず(中略)其の気色窅然(ようぜん)として、美人の顔を粧う」 このように、芭蕉は、松島が中国の洞庭湖や西湖に劣らない好景
『老いの覚悟と生き方(4850回記念)(26)奥の細道(12)』の画像

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老いと微笑みの哲学(2) 懸案の論文(第四報)投稿を済ませたことで、やや心の余裕が出てきましたので、滞っていた本執筆に分け入ることにしました。 老いての久しぶりの高専を振り返っての論文執筆の開始、そして、それを持続し、第四報まで重ねてきたこと、それが未だ道
『微笑みの哲学(5100回記念)(3)』の画像

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