不易流行 奥の細道も、新潟から北陸道を南下して金沢に向かう旅路になりました。 松尾芭蕉にとっては、最大の難関だった北陸横断を終え、ほっと安心しながら酒田へ、そして平地を伝って、新潟から市振に到達してきたのでした。 そして、お隣の出雲崎の宿屋で、「荒海や
博士が愛したマイクロバブル
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(36)奥の細道(22)佐渡
佐渡島 新潟から市振へ、芭蕉らは、途中で宿探しにも困りながら、南に下っていきました。 途中、海の向こうに佐渡島を思い浮かべながら、出雲崎の宿屋において、次の名句が詠まれたといわれています。 おそらく、荒海で隔てられた、佐渡島の向こうの満点に天の河が、観え
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(35)奥の細道(21)新潟
新潟 酒田を旅立った芭蕉らは、一路新潟に向かいました。 この折、芭蕉は体調を崩し、その道程は平道であったにもかかわらず、おだやかではなかったようでした。 ようやく、新潟に辿り着いたようでしたが、今度は宿泊先が見つからず、日も暮れて途方に暮れていました。
微笑みの哲学(5100回記念)(5)母の命日と風鈴
母の命日 本日、9月1日は母の命日です。 家内が、仏壇に果物を添えてくださいました。 母は、1994年に逝去、享年70歳でした。 若いころから洋裁が得意で、それで我が家の家計を支えていました。 大学受験の際には、家族は、揃って金のかからない大学に進むことを望んで
微笑みの哲学(5100回記念)(4)
老いと微笑みの哲学(4) 昨年末から、執筆を開始した論文の第六報の草稿を書き終えたところですが、今回は、その執筆速度を減じて、やや余裕を持ちながら筆を進めてきました。 そのせいでしょうか? いつもは、この執筆の影響で本ブログ記事が大きく滞ることになっていま
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(34)奥の細道(20)酒田
酒田 芭蕉は、奥の細道のクライマックスとなった東北横断を済ませ、その第二コースの終着地である酒田に到着し、ここで弟子たちとの句会も和やかに開催し、8日という長逗留を行いました。 酒田は、東北地方最大の商人たちの街であり、北海道から京や江戸に物資を運ぶ船便
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(33)奥の細道(19)鶴岡
鶴岡 芭蕉一行は、月山や鶴岡の羽黒山五重塔を訪れて、その信仰のなかの「静寂」の奥の極みに触れました。 その後、その静寂から離れ、ほっと安堵しながら鶴岡の長山氏宅へと向かいました。 これは、東北横断という最大の難関を突破し、どこか安らぎを感じた第二コースの
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(32)奥の細道(18)出羽三山
出羽三山 立石寺を後にして、元禄2年(1689)6月1日(新暦7月17日)に、芭蕉らは新庄に向かい、そこで宿泊しました。 近くに清水が湧き出る泉があると聞き、そこを訪れて、次の句を詠まれています。 水の奥 氷室尋ぬる 柳哉 その水を飲まれて、あまりにも冷たくて美味
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(31)奥の細道(17)最上川
尾花沢から新庄へ 最上川は、山形の米沢北へ酒田に向かって流れており、単独県内における日本最大の長さを有する川です。 古くから、この川を利用しての輸送がなされていました。 たとえば、尾花沢の鈴木清風は、そこで紅花問屋として財をなしていきましたが、尾花沢で栽
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(30)奥の細道(16)立石寺
山寺へ 紅花の思い出を残しながら、芭蕉らは、奥の細道の第二コースのハイライトである山寺(立石寺)へと向かいました。 10日間の尾花沢滞在で、心身の疲れを癒し、すっかり元気を回復しての山入りでした。 尾花沢から山寺駅までは約40㎞、徒歩で約8時間の工程でした。
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(29)奥の細道(15)尾花沢
山刀伐(なたぎり)峠越え 3日間の大雨で、封人の家に留まっていた芭蕉らは、山賊が出るという山刀伐峠に向かいました。 出かける時に、その山賊に備えて、封人の家の大家が屈強な若者をガードマンを付けてくれました。 鑿虱に悩まされ、馬の尿の臭いで苦しめられた芭蕉
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(28)奥の細道(14)第二ルート
第二ルートへ 江戸深川から平泉まで、これが松尾芭蕉の奥の細道の第一ルートでした。 ここまでは東北地方の東側であり、いわば開けた都市や地域があったことから、その旅は比較的容易なものでした。 また、その各地には芭蕉の弟子や知人がいて、それらの人々とも親しく交
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(27)奥の細道(13)義経堂
一関の「二夜庵」 松尾芭蕉一行は、江戸を出発して44日目の1689年5月13日に平泉を訪れています。 一関から平泉までは約7.3㎞ですので、徒歩で2時間のところにあります。 その一関では、金森家に宿泊し、気に入ったようで、ここに2泊したことから「二夜庵」ともいわれてい
老いの覚悟と生き方(4850回記念)(26)奥の細道(12)
松島では一句も詠まなかった 松尾芭蕉は、松島を見物した後に、次の文章を遺しています。 「松島は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥ぢず(中略)其の気色窅然(ようぜん)として、美人の顔を粧う」 このように、芭蕉は、松島が中国の洞庭湖や西湖に劣らない好景
微笑みの哲学(5100回記念)(3)
老いと微笑みの哲学(2) 懸案の論文(第四報)投稿を済ませたことで、やや心の余裕が出てきましたので、滞っていた本執筆に分け入ることにしました。 老いての久しぶりの高専を振り返っての論文執筆の開始、そして、それを持続し、第四報まで重ねてきたこと、それが未だ道