CDづくり再開のきっかけ
すでに紹介してきたことですが、今一度、この問題から認めてみましょう。
今から約3年前、丁度、ヒマワリさんの誕生日の時、いつものように誕生日のプレゼントを何をしようかと思いあぐねていました。
「さて、どうしようか?」
直前になってもよいアイデアが浮かばず、その日を迎えてしまいました。
今回も追い込まれてしまい、苦し紛れ半分で、こう告げました。
「現金で、○○円、これが誕生日のプレゼント、これでCDづくりをしたらどうですか?」
この提案に、ヒマワリさんは格別の反応を示し、予想以上の大喜びしながら深謝の意を表されました。
これによって、その苦し紛れは吹っ飛んでしまい、「さすが!」に変わっていました。
じつは、その間、私の定年退職、国東への会社移転、新居の建築、そして私の大病などがあって、彼女にも余裕が無くなっていました。
振り返れば、14年間もCDづくりができなくなっていて、それが6枚目までに留まっていました。
このCDづくりは、ヒマワリさんの音楽家(ソプラノ歌手)としての貴重な軌跡であり、このCDづくりを10枚行おう、というのが二人で話し合っていたことでした。
おそらく、その6枚目で止まってしまっていたことを心の奥で気にしていたのでしょう。
この苦し紛れの、しかし、よく考えてみれば的を射た提案によって、それをきっかけとして7枚目の準備が開始されました。
ヒマワリさんは寅年の生まれであり、虎のように猪突猛進していくことが習性のようで、それからというものは連日連夜において、その練習が重ねられていきました。
「今度は、どんな曲を歌うのであろうか?」
「14年の蓄積のなかで、どう変化してきたのか?」
「何がテーマになるのか?」
こんなことを考えながら、その練習に耳を傾けていました。
どうやら、ヒマワリさんは、光マイクロバブル入浴の際に歌の練習をするのが好きみたいで、その心身を癒しながら聴こえてくる曲と歌声から、それらの「想い」が徐々に解ってきていました。
彼女は、周南市においてT高専における音楽講師を勤めながら、地域の女声コーラス「コールヴィリア」を主宰し、毎年のように「愛と平和のコンサート」を開催していました。
また、山口放送のディレクターの磯野恭子さんと深く交流するようになり、磯野さんが製作したテレビドキュメントの番組をモチーフにした歌作りを行なうようになりました。
その第1作が『原爆の子 百合子』であり、この披露の際には、ご本人の百合子さんと磯野さんも来られて喜ばれていました。
その後も、磯野さんとの共同が進み、今から33年前のことでしたが、芝憲子作詞。池辺晋一郎作曲の『海の墓標』が初演奏されました。
この曲は、1942年に山口県宇部市の長生炭鉱において起きた水没事故で183人(朝鮮人が135人)という多くの方々が犠牲になって亡くなられた磯野さんのドキュメント『海なりのうた』が主題になっています。
そして、この曲をきっかけとして韓国の女声合唱団とも交流をするようになり、ヒマワリさんは、それ以来6回の韓国公演を行うまでになりました。
この『海の墓標』が、当時の韓国日本大使、馬山市長、KBS役員、馬山MBS役員にも小さくない影響を与えたことから、それが日本語による歌の韓国公演禁止の桎梏の鎖を解き放つ重要な契機となっていきました。
ヒマワリさんは、沖縄生まれですが、どうやら朝鮮半島の気質にも相通じるところがあるようで、それが海を超えての交流のベースになっていたようです。
昔は、沖縄は、日本本土はもちそんのこと、中国や朝鮮半島とも広く交流していたことから、その開放性は生来のことではないかと想像されます。
また、当時はウクライナでの戦争が本格化したころでもあり、ことさら愛と平和を大切にすることが求められていました。
これらを背景にして、そのCDの7枚目が、沖縄で収録されました。
今から約3年前、丁度、ヒマワリさんの誕生日の時、いつものように誕生日のプレゼントを何をしようかと思いあぐねていました。
「さて、どうしようか?」
直前になってもよいアイデアが浮かばず、その日を迎えてしまいました。
今回も追い込まれてしまい、苦し紛れ半分で、こう告げました。
「現金で、○○円、これが誕生日のプレゼント、これでCDづくりをしたらどうですか?」
この提案に、ヒマワリさんは格別の反応を示し、予想以上の大喜びしながら深謝の意を表されました。
これによって、その苦し紛れは吹っ飛んでしまい、「さすが!」に変わっていました。
じつは、その間、私の定年退職、国東への会社移転、新居の建築、そして私の大病などがあって、彼女にも余裕が無くなっていました。
振り返れば、14年間もCDづくりができなくなっていて、それが6枚目までに留まっていました。
このCDづくりは、ヒマワリさんの音楽家(ソプラノ歌手)としての貴重な軌跡であり、このCDづくりを10枚行おう、というのが二人で話し合っていたことでした。
おそらく、その6枚目で止まってしまっていたことを心の奥で気にしていたのでしょう。
この苦し紛れの、しかし、よく考えてみれば的を射た提案によって、それをきっかけとして7枚目の準備が開始されました。
ヒマワリさんは寅年の生まれであり、虎のように猪突猛進していくことが習性のようで、それからというものは連日連夜において、その練習が重ねられていきました。
「今度は、どんな曲を歌うのであろうか?」
「14年の蓄積のなかで、どう変化してきたのか?」
「何がテーマになるのか?」
こんなことを考えながら、その練習に耳を傾けていました。
どうやら、ヒマワリさんは、光マイクロバブル入浴の際に歌の練習をするのが好きみたいで、その心身を癒しながら聴こえてくる曲と歌声から、それらの「想い」が徐々に解ってきていました。
彼女は、周南市においてT高専における音楽講師を勤めながら、地域の女声コーラス「コールヴィリア」を主宰し、毎年のように「愛と平和のコンサート」を開催していました。
また、山口放送のディレクターの磯野恭子さんと深く交流するようになり、磯野さんが製作したテレビドキュメントの番組をモチーフにした歌作りを行なうようになりました。
その第1作が『原爆の子 百合子』であり、この披露の際には、ご本人の百合子さんと磯野さんも来られて喜ばれていました。
その後も、磯野さんとの共同が進み、今から33年前のことでしたが、芝憲子作詞。池辺晋一郎作曲の『海の墓標』が初演奏されました。
この曲は、1942年に山口県宇部市の長生炭鉱において起きた水没事故で183人(朝鮮人が135人)という多くの方々が犠牲になって亡くなられた磯野さんのドキュメント『海なりのうた』が主題になっています。
そして、この曲をきっかけとして韓国の女声合唱団とも交流をするようになり、ヒマワリさんは、それ以来6回の韓国公演を行うまでになりました。
この『海の墓標』が、当時の韓国日本大使、馬山市長、KBS役員、馬山MBS役員にも小さくない影響を与えたことから、それが日本語による歌の韓国公演禁止の桎梏の鎖を解き放つ重要な契機となっていきました。
ヒマワリさんは、沖縄生まれですが、どうやら朝鮮半島の気質にも相通じるところがあるようで、それが海を超えての交流のベースになっていたようです。
昔は、沖縄は、日本本土はもちそんのこと、中国や朝鮮半島とも広く交流していたことから、その開放性は生来のことではないかと想像されます。
また、当時はウクライナでの戦争が本格化したころでもあり、ことさら愛と平和を大切にすることが求められていました。
これらを背景にして、そのCDの7枚目が、沖縄で収録されました。
7枚目の「愛と平和」
ここには、広島の原爆の後に見せた「青い空は」や長崎の原爆被災者を献身的に診療した医師のことを謳った「長崎の鐘」、そして第二次世界大戦においてヒットラーのナチスから追われたオーストリアの家族が逃れながらも、決して屈しなかった時に歌った「エーデルワイス」と「すべての山に上れ」などが組み込まれています。
また、私が非常に好きな歌は、「昴(すばる)」と最後の「ヴィリアの歌」であり、ともに思い出深い曲です。
これらの想いが、確実に受け継がれ、さらにイスラエルのガザ侵攻によって大量虐殺がなされたことでパレスチナの平和が無残にも踏みにじられていることから、この「愛と平和の願い」は、ますます切実に深められています。
それが、今回製作された8枚目のCD『南風の祈り』です。
今は、その試作完成版を毎日拝聴しながら、それを深く味わっています。
なかでも、このなかの女声コーラス用の『海の墓標』全六曲をすべてソロで歌うという「離れ技の快挙」を成し遂げたことに敬意を覚えています。
この歌声は、この曲の最後に示されている次の言葉のように、今は亡き磯野恭子さんをはじめとして犠牲になられた家族のみんさんにも、きっと力強く響き渡っていくことでしょう。
「届け、海の底へ、朝鮮半島へ、世界へ!」
(つづく)。
チューリップ(前庭)

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