西洋の古語曰くの謎(3)

 高野長英が宇和島で開いた塾「五岳堂」の学則の第一条の冒頭には、次の記述がありました。

 「西洋の古語に曰く、学問の道は須らく雫の石を穿つ如くせよ。之れ夙夜黽勉懈ることなければ、遂に大成を爲すべし」

 この「西洋の古語」に関しては次の指摘があり、それを再度まとめます。

 1)古典(ラテン語):オウィディウスの『追放詩集(Ex Ponto)』4巻10詩5行の
 “gutta cavat lapidem”(雫は石を穿つ)であるとされています。

 2)さらに古い文献(ギリシア・ラテンの類例)
 古代ギリシア詩人のキオリロス(サオスのコエリオス)の断片には、「雫は持続によって岩を掘る」があり、ラテン語においてルクレティウスが、次のように繰り返し述べています。
 “stilicidiī cāsus lapidem cavat”(軒滴の落下は石を穿つ)

 3)中世以降の定型句
 中世では、定型句の形として、 “gutta cavat lapidem, non vi sed saepe cadendo” (力でなく、しばしば落ちることで)が示されていた。

 4)オランダ語への受容(蘭学に届く経路)
 ルネサンスのエラスムス『アダギア(格言集)』などを通じて広まり、オランダ語では、「Gestadig druppelen holt de steen(uit)」/「De druppel holt de steen(uit)」(持続する雫は石を穿つ)となった。

 5)高野長英との関係
 この学則第一条の趣旨は、かれ自身の次の蘭文四行詩にも示され、「たえねばや はては石をもうがつらん かよわきつゆのちからなれども」の蘭語が残されている。

 さて、問題は、高野長英が、どのようにして、この古語を知り、座右の銘にしてきたかにありますが、これには、師であったシーボルトの教えがあった可能性があります。

シーボルトの学問的姿勢と長英

 シーボルトの日本研究は、次のようでした。

 ①オランダ東インド会社の医師として長崎出島のオランダ商会に赴任し、西洋医学、自然学(動植物学、地理学など)、語学などを日本に体系的に伝えました。

 かれは単なる医師ではなく、博物学的知の伝道者であり、鳴滝塾の弟子たちに「西洋流の学問姿勢」を植え付けました。

 とくに、「持続的努力」、「観察・実証主義」、「国際的視野を養う学習」の重要性を繰り返し説くことに熱心でした。

 ②高野長英は、シーボルトの愛弟子の一人であり、鳴滝塾においては、約3年間で19編者オランダ語の報告書をシーボルトに提出し、ドクトルの称号も授与されました。

 長英が、シーボルトから学んだことは、オランダ医学や博物学に留まらず、「学問への姿勢そのもの」にお深く及びました。

 ➂鳴滝塾においては、ラテン語、オランダ語の格言や古典引用も盛んに伝授されていた可能性は高く、その一つに「gutta cavat lapidem(雫が石を穿つ)」があったのではないでしょうか。

 以上のように、シーボルトの時代には、この「学問的姿勢を唱える古語」は広く知られており、シーボルトが日本の弟子たちに教えた格言であったことは大いに考えれることだったといってもよいでしょう。

 現に、シーボルトは、上記の『エラスムスの格言集』やラテン語の文献を日本に持参してきたことは知られていて、ここから、この格言などを通じて長英らの弟子たちに、その学問的精神が伝授されていた可能性があると考えられます。

 それゆえ、この五岳堂の学則第一条は、シーボルトによって示された教育目標を指針とした長英らしい「学問観と学習哲学」といえます。

 それゆえに、哲学者の鶴見俊輔氏は、この学則を、長英における最高の業績といったのではないでしょうか。

 この解明によって、ようやく、この古語に関する靄(もや)がかなり晴れてきました。

 今度中津のK先生に出会った時には、この「古語」探究の到着点を紹介し、

 「先生の推測は的を射ていましたよ!」

と告げることにしましょう。

 この探索には、結局足掛け数年の長い年月を経てしまいましたが、この到達に至った今の時点において高野長英の教えを振り返れば、次のような想いが湧いてきます。

 「結局、この学則第一条に示された『須らく雫の石を穿つ如く』の精神を、どこまでも最も貫いて生きたのは、長英自身であり、その哲学こそが現代に生きているのではないか。

 この哲学を大切にしよう!」

 ここで、しばらくの間は、なお一層の高野長英研究を探究することに専念することを優先するために、本稿を閉じることにしましょう。

 長い間のご愛読、ありがとうございました。

siroaza-1236
白い綿帽子(散歩にて)