西洋の古語曰くの謎

 高野長英は、伊達宗城公に招聘されて密かに宇和島で「五岳堂」と塾を開きました。

 その塾の学則を自ら作成して、数人の塾生たちに長英流の教育を行いました。

 当時の宇和島藩には、西洋通の宗城公がいて、その書庫にはたくさんの資料が山積みされていました。

 なかでも、宗城公の関心は、オランダ医学と西洋の軍事技術にあり、それらを活用できるように翻訳し、それを若い塾生たちの教えることが長英に託されていました。

 この学則の第一条には、次のように記されていました(数字は筆者が記入)。

 「西洋の古語に曰く、学問の道は須らく雫の石を穿つ如くせよ。之れ夙夜黽勉懈ることなければ、遂に大成を爲すべし」

 長英の人生において、最初の転機は23歳の時に、長崎の鳴滝塾の門を叩き、塾生として一心不乱に学問を重ねたことから、師匠のシーボルトから絶大な信頼をえることができました。

 この鳴滝塾において、長英は19編ものオランダ語による論文を執筆しましたが、そのなかで2編の医学論文以外は、生け花や宗教などの幅広い分野の論文であり、それはシーボルト自身から、その研究を要請されたものでした。

 また、長英は、シーボルトらが江戸の将軍謁見のために、下関に到着した際に、同じくシーボルトから指名されていた鯨の研究論文を提出し、それによって「ドクトル」の称号を与えられました。

 その後、シーボルト事件が勃発し、追われる身となった長英は、江戸に戻って渡辺崋山らとの親交を深めていきました。

 この長崎から江戸に向かい、江戸での崋山との交流のなかで、医者としての自立をなし、多数の論文執筆と訳文を世に出していきます。

 また、崋山は、田原藩の家老となり海防担当となっていたことから、尚歯会を軸として、長英らと盛んに海防論を議論していました。

 ここで、長英は、外国の情勢にも詳しく、とくにイギリス艦隊についても詳しく調査研究していたことから、その問題を「夢物語」として著し、世に明らかにしたのでした。

 ところが、夢とは断りながらも、あまりにもリアルな様を述べていたことから、これが評判となり、今でいうベストセラーになって、江戸の庶民はおろか、大名たちも密かに愛読するようになったのです。

 当時の老中首座の水野忠邦とその部下の鳥居耀蔵は、これを苦々しくおもい、まず崋山を捕らえ、そして自首してきた長英を永牢にしてしまったのでした。

 その後、鳥居耀蔵が失脚する二カ月前に長英は破獄し、全国を逃げ回る逃亡者になっていました。

 その長英を、密かに宇和島藩に招聘したのが伊達宗城であり、かれは、長英の「夢物語」を読んで感心し、長英の博学を宇和島藩の若い藩士に学ばせ、同時に山積みされたオランダを始めとする西洋文献の整理と翻訳を依頼したのでした。

軍事専門家としての長英

 こうしてこの高野長英は、外国船が日本近海に接近し、日本征服を虎視眈々と狙うという情勢になり、そのことを誰よりも詳しく理解していたのでした。

 そして、長英は、逃亡生活を続けながらも、医者から軍事専門家としてのゆるぎない地位を築いていたのでした。

 それゆえに、伊達宗城の長英を迎えるという英断は、それが幕府に逆らうという危険を帯びながらも、宇和島藩にとっては貴重な成果と次の日本を構築する重要な土台形成となっていったのです。

 その意味で。この五岳堂の学則第一条は、じつに重要な意味を有していました。

 ここでは、学問の道として、「須らく」、いつも雫の石を穿つ如くせよといい、小さな水滴が、石を窪ませ、最後には穴を掘り、壊してしまう、このように、いつも、そして真面目に、夜も昼も一心に勉強しなさい、といっています。

 だれもが、この第一条を耳にすると、気を引き締めて蛍雪を重ねよと、心に沁みるおもいを描くでしょう。

 私も、その一人でしたが、ここで、学則の冒頭でいっている西洋の古語に曰く」の「古語」とは何かが気になりました。

 この出所をいろいろと調べてみましたが、簡単には見つかりませんでした。

 そして、長英ほかの医学史に詳しい中津のK整形外科病院のK理事長にも、それを尋ねましたが、「おそらく、それにはシーボルトが関係してるのではないですか?」という示唆を受けました。

 そこで、今度は長英だけでなく、シーボルトの関連文献を丹念に調べてみましたが、やはり、その出所を明らかにすることはできませんでした。

 「これは、砂漠に落ちた一本の針を探すようなことなのかもしれない!」

 こうして暗雲が漂ってきたのですが、じつは、ここで、おもわぬ転機がやってきました。

 それが、ChatGPTの利用でした。

 五岳堂の学則を示し、その冒頭にある「西洋の古語曰く」の出所を尋ねてみました。

 すると、どうでしょうか?

 AIが、すらすらと答え始めました。

 そして、その回答を理解していくと、なぜこれまでの文献調査からは判明しなかったのかという理由も解りました。

 じつは、この「古語」は、学徒にとっては、そんなに珍しい用語ではなく、古くから言い伝えれてきたものでした。

 次回は、その「古語曰く」のなかにふかく分け入ることにしましょう(つづく)。

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道の駅「院内」の広場に咲いていた白い花