歴史のなかのイノベーション(4)
日本の古代史において、一大土木技術のイノベーションが生起したのは、古墳時代(こふんじだい)です。
3世紀後半から7世紀前半の約400年間が、その時代に相当します。
この時代においては、大和王権が成立し、その首長の墓として古墳が建造されました。
その数は16万か所ともいわれ、日本列島の各地に古墳が盛んに築造されました。
この前は、縄文時代と弥生時代です。
前者は約1万3000年、後者は約1250年続いたといわれています。
縄文時代が長く続いた理由は、戦争がなく、食糧も豊富で平和で豊かな生活をおくることができたからであり、その縄文後期においては、山地は縄文人、平野は弥生人という棲み分けがなされていて、互いに争い合うことはありませんでした。
しかし、弥生の時代になってからは、稲作において収穫差が生まれるようになり、その争奪によって貧富の格差が生まれ、その米の収奪をめぐって部族間において戦いが繰り返されるようになりました。
そして、その有力部族のなかから天皇が生まれ、天皇を中心にした大和王朝ができ上ることになりました。
この王朝の特徴は、それまで日本各地に存在していた国をしだいに束ねていったことにあり、それを象徴的に示したのが、大規模古墳群でした。
この仁徳天皇陵の土木積算が大林組によって次のようになされています。
期間:15年8カ月
総事業人数:680万人(1日2000人が月25日働く)
総費用:800億円(1985年当時)
しかも、この天皇陵は、今のようにこんもりとした森に覆われていたのではなく、すべて石が敷き詰められていていたそうです。
当時の弥生人たちに、このような大規模土木工事や石積み技術はなく、明らかに異質の技術イノベーションの適用があったことが示唆されています。
これらは、いったいどこから持ち込まれてきたのでしょうか?
しかも、このような大事業をどのようにして可能にしたのでしょうか?
かつては、それだけの動員力と財政力を有していた大権力をもっていたからこそ、成し遂げられたことだと解釈されていましたが、じつはそうではないかったという説得力ある解説がなされるようになってきました。
じつは、この天皇陵の主である仁徳天皇には、つぎのような逸話があります。
応神天皇の後を受けて即位したかれは、大阪平野を視察した時に、夕暮れ時にもかかわらず、煙が上っていないことに気付き、民が貧しい状態にあることを知り、早速3年間の租税を免除することを決めました。
民おもいの、やさしくて素敵な決断であり、民は大喜びしました。
このときと同じように、今の民は消費税他の税金によって生活を追われる状態に至っています。
しかも、円安で、食料品物価は再び急上昇し、米の値段は二倍以上に跳ね上がってます。
それでも、わざわざ消費税を下げないことを決めて、都議選、参議院選に突入しようとしているのですから、負け戦をしようということなのでしょう。
仁徳天皇とは比較にならないほどの愚かさといえるのではないでしょうか。
さて、それから3年後に、大阪平野の夕暮れ時に煙があちこちに上り始めたことを確認すると、かれは大阪平野の一大干拓偉業を開始します。
その土木事業のメインは、水路作りと水田づくりでした。
この事業に民たちは喜んで参加し、その作業における日当も受け取っていました。
水田ができ、日当も得られたことから、真に一石二鳥の一大事業だったのです。
これを計画指導したのが渡来人といわれている武内宿禰であり、秦氏の一族だったのです。
周知のように、4大文明における特徴の一つが、巨大な建築物や土木構造物を建築することでしたので、この秦氏を中心とする渡来人たちの一族は、この一大土木事業を指揮できたのでした。
天皇に仕えながら、戦争の無い永住地として選んだ日本において同化していく際に、かれらが持ち込んできた技術が大いに役立ったのです。
こうして、仁徳天皇陵は、その灌漑事業の残土の集積地として積み上げられた後に石棺を埋め、石を敷き詰めて仕上げられたのでした。
その石は、今では、その上に生えた樹木によって覆われて見えなくなっていますが、その様子は復元された五色塚古墳(神戸)によって明らかにされています。
もうひとつの問題は、このようにたくさんの石を敷き詰める、すなわち石工の技術が、当時の日本にはなく、これも渡来人によってもたらされた技術でした。
石工は、「メイソン」と呼ばれており、その石工の自由を求めた結社が「フリーメイソン」でした。
このような巨大な土木構造物や石工の技術の伝統は、世界四大文明のころから積み重ねられてきており、それらを身に着けた渡来人がやってきて、仁徳天皇陵の建設に貢献したのではないでしょうか。
仁徳天皇は、渡来人であったといわれる武内宿禰の孫娘を皇后として迎えていますので、宿禰も天皇に近い重な側近として天皇に仕えることで同化を進めていったようにおもわれます。
この土木イノベーションの実行において、非常に興味深いことは、天皇を中心にした日本古来の豪族たちが、渡来人たちを積極的に登用し、互いの同化を進展させたことです。
渡来人たちは、世界中を渡り歩くことを余儀なくされ、そこではすでに定着していた民族との争いを繰り返していたのですが、日本においては、それが起こらず、むしろ快く受け入れられました。
とくに帰る故郷がなかったユダヤ人にとって、その平和な受容は驚きであり、心やすまることであり、そのことが日本に定住して、天皇や地域の人々に尽くすという気持ちを起こさせたのではないでしょうか。
それだけ、日本は豊かで寛容、安心立命の国だったのです。
また、それを受容した日本人も、渡来人の先進的な技術に興味を抱き、それを採用して、より技術や技能を磨いていくことに小さくない興味を抱いたのでしょう。
こうして、柔軟に渡来人の技術や文化を受容していく日本人固有の特質が育まれていきました。
さて、この巨大な古墳づくりは、徐々に規模を小さくしていくようになり、7世紀の後半においては、その建設が途絶えてしまうようになります。
これには、もともと巨大な古墳文化は、日本人の気質に合致していなかったものであり、異質であったことから長続きはしなかったという見解もあるようです。
次回は、その理由と変化に分け入っていくことにしましょう(つづく)。
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