大谷翔平と高野長英(続き)(8)
 
 前記事に続いて大谷翔平と高野長英の比較表を示します。
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 さて本日は、上記の表における「人格」と「視野」について考察してみましょう。

 大谷選手の人格形成において、まず小さくない影響を与えたのは父母と兄の姿だったのではないでしょうか。

 父親の徹さんは、翔平選手が小学校2年生の時から水沢リトルリーグでの指導を始め、野球はチームで戦うことから、みんなのチームワークが大切であることを徹底して教えました。

 また、母親の加代子さんは、バトミントンの全日本クラスの選手であったことから、翔平選手の体力づくりに貢献されました。

 米を食べさせえて身体を大きく、丈夫にする、その基礎は、加代子お母さんの指導によるものであり、それが今に生きています。

 翔平選手は、試合において常にチームの勝利を最優先させて闘う姿勢を貫き、練習において人一倍どころか何倍も熱心で、夜遊びはしない、休日も練習をする、これを徹底して行う意思のの強さが貫かれるようになりました。

 栗山監督が、この練習に関するおもしろいエピソードを紹介していました。

 寮で生活をしていた翔平選手は、その寮の門限を知らなかったそうです。

 夜に出歩くことを一切しなかったことから、寮の門限を知る必要がなかったからでした。

 外食をしない、酒を飲みに行かない、夜遊びもしない、それが当たり前の生活をしながら、休日であっても練習に明け暮れていたのですから、そのようなことはよほど人格的に優れていないと実行できないはずです。

 まるで、その様は修行僧に例えられるほどのことですが、それが天賦の才として備わっていたのですから、そこに素晴らしさが存在しているようにおもわれます。

 一方の高野長英は、どうだったでしょうか?

 かれは、後藤家の3男として生まれ、母方の生家であった高野家に養子に出され、そこで医者になることがほぼ決まっていました。

 家督は長男が継ぐと決められていましたので、長英は、二男の湛斎とともに学問を蛍雪することによって医者になることを目標にしていました。

 湛斎と共に家を出て、江戸での蘭医学の勉強に打ち込みますが、その生活費は自分で稼ぐしかなく、按摩をしてやりくりをしていました。

 昼は医学の勉強、夜は按摩をして生活費を稼ぐという毎日でしたので、遊ぶことはできず、贅沢もせずに、ひたすら兄と共に学問を研鑽し、自立をめざしていたのでした。

 医者は患者を救うことを仕事とする職業ですので、なによりも真っ先に「仁の心(おもいやり)」が必要であり、そのことに自分を捧げるという献身性が要求されます。

 真に、人にやさしいことこそが医者の仕事なのです。

 その医者になるために、しかも東洋医学ではなく、より進んでいる西洋医学を学びたい、これが長英の念願でしたので、そのためには何でもする、辛苦に耐えても、それを成し遂げる、すなわち学問の道を歩むことを誓っていたので、それが最優先のことでした。

 幼いころから兄の湛斎と共に長英は勉強好きでしたので、半ば家出のように江戸へと出てきたからには、学問において自分の身を立てることに必死になっていったのです。

 やがて、大谷翔平選手と高野長英は、その視野を広げ、世界を視野に入れた準備を行い、活躍し始めます。

 大谷選手は、日本ハムからメジャーへ、長英は、長崎のシーボルトのところへ馳せ参じます。

 いずれも、それまでの準備過程において地力が養成されていなかったら、その活躍はなかったでしょう。


 以上のように、大谷翔平選手と高野長英には、非常によく似た側面がいくつもあり、それらを踏まえてより一層の深い究明が重要とおもわれます(つづく)。
 
 参考文献: 鶴見俊輔著『評伝 高野長英』、中村整史朗著『小説 高野長英』、吉村昭著『破獄』

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ハコネウツギ(前庭)