報 告
 
 先日、第55回の「ナノプラネットゼミ」が開催されましたので、以下に、その報告をしておきましょう。

    日時:2025年3月11日(火)、10:30~12:30 16:00~16:40
 場所:大成研究所セミナー室(〒873-0432大分県国東市武蔵町向陽台12-2)
 主催:(株)ナノプラネット研究所、(株)ナノプラネット・大成研究所

 プログラム

 
①大成京子 「発達障害を持つ子供の育て方」

  ②大成博文  「古代史におけるイノベーション(1) 」

  ③大成水晶 「血流促進とホルモンの産生問題」

トスカ

 ①:トスカは、オランダの少女の名前であり、生来、脳障害を患い、目も見えない、知恵遅れのこどもであり、父母たちは、彼女の生涯に心配をしていました。

 その父母が、日本の保育園で、その発達障害の子供を立派に保育活動によって治していることを知り、そのトスカを抱いて埼玉県深谷市にある保育園にやってきました。

 その保育の指導を行っていたのが、斎藤公子先生でした。

 まず、その赤ん坊を抱いて、目を合わせてやさしく見つめることから始めました。

 当時のトスカは、目を合わせることができずに、うつろなままでした。

 これを辛抱強く行い、徐々に目を合わせるようになっていきました。

 次は、身体をねじらせる運動を行い、身体的刺激が脳に伝達するようにしました。

 これらを辛抱強く繰り返し、トスカはしだいに赤ん坊らしくなっていきました。

 この折、私の家内は、長女を連れて斎藤先生に面会しにいきました。

 斎藤方式でトスカの保育を目の当たりにした長女は、それまでに自分の進路を見失っていましたが、何か自分の行なうべきことをに目覚めたようで、しばらく、斎藤先生の助手のような務めを行い、大学への進学めざして勉強をするようになりました。

 トスカだけでなく、私の長女を救ってくださったのが斎藤先生でした。

 先生は、長女の長所を誉め、「トスカの通訳です」と長女のことをいっていました。

 その長女は、関東地域の国立大学に進学し、障碍児教育を学んで、今では教師をしています。

 この度、その斎藤先生の弟子にあたる方から、保育園の記録ビデオを送付していただき、それを鑑賞しました。

 そのなかで、斎藤先生は、トスカの成長に責任を持って対応され、3度も自費でオランダに会いに行かれて指導を行われました。

 そのトスカは、今では素敵な何の障害もない娘さんになっています。

 斎藤保育論の基礎は、ヒトの進化過程を参考にして、その発達プログラムを開発したことにありました。

 同時に、その発達において多くの脳障害は治癒していくという信念に基づいた訓練法を編み出し、さらに、それらを最新の脳科学者による脳刺激の科学をドッキングさせたところに、この斎藤理論のすばらしさと凄さがありました。

 その斎藤先生は、晩年、光マイクロバブル入浴を大変気に入っておられました。

 きっと、彼女が生涯にわたって理論化し、実践してきたことと光マイクロバブルが非常によく共鳴していたのではないかと想像しています。

 その以前のことを想起させていただいた爽やかな報告でした。

六本柱遺構

 ②:この日本で1万2000年以上も続いた縄文時代におけるイノベーションの典型が三内丸山遺跡の「六本柱遺構」です。

 それは、直径1m、高さ15mの栗の大木を6本建てて、それを組み立てた巨大構造物でした。

 縄文人は、このような建築イノベーション力を有していたという驚嘆すべき事実が、この遺跡の発見によって確かめられました。

 そして、この発見によって、三内丸山遺跡は、取り壊されることなく、大切に保存されることになったそうです。

 しかも、この遺跡の発掘は、今だ途上にあり、今後もすばらしい遺跡の発見があるかもしれないといわれています。

 さて、なぜ、縄文人は、このような素晴らしい建築イノベーションを実現することができたのでしょうか?

 検討と議論は、この点を中心にして進められました。

 その第1は、この遺跡内にたくさんの人々が生活していたことです。

 縄文人の住処は竪穴式住居であり、これが遺跡内に600以上もあったとされています。

 このことから、一説によれば、ここの遺跡の人口は1700人であったと推測されています。

 この1700人が力を合わせて、この六本柱遺構を建設したことが想像されます。

 第2は、この動員が何のためになされたのか、という問題です。

 東北大学名誉教授の田中英道氏によれば、太陽神に関連した施設であったそうです。

 夏至、冬至、日の出、日没などの方角と、その柱の配置がぴたりと一致していることが、その根拠となっています。

 また、この遺跡では、数百人が入ることができる巨大な高床式集会所や迎賓館のような小型の高床式社も建設されていました。

 この遺跡から海までは、わずかに数㎞しか離れていおらず、しかも、この遺跡から海までは、沖館川が流れていましたので、この川を使った交通がなされたのでしょう。

 当時は、海における交流が盛んであり、その客を迎えるために、この遺跡から海に向かって立派な道路も建設されていました。

 また、その道路の両脇には、祖先の方々の遺骨が埋められ、その墓が道路と一体化していました。

 この活発の交流によって、上記の大型構造物や家屋の建築技術の伝達もなされたのでしょう。

 縄文人は、単に、野山でおとなしく生活していただけではなかったのです。

 第3は、気候がよく、食べ物が豊富であったことです。

 当時は、今よりも3~4℃も温かく、今の東京のような温暖さがあり、非常に棲みやすかった地域でした。

 当時の人口は、約26万人であり、そのうちの92%が、この東北や北海道に住んでいたと推測されています。

 遺跡のすぐ西側には森があり、そこには栗の木が林立されていて、これが主食となっていました。

 また、海にも近く、その海岸に行けば豊富な貝と魚が手に入りました。

 私は、1973年から3年間、宇部市の砂浜の近くに下宿していましたが、腹が減ると、数分歩いて、この砂浜に行き、そこで両手を用いて砂浜を掘ると一挙に20個程度のアサリを獲ることができました。

 これを2~3回行い、かえってアサリ汁を作ってすきっ腹を埋めることができました。

 おそらく、縄文人たちも、このような豊かな狩猟をしていたのではないでしょうか。

 これらの食物を煮炊きして、美味しく食べていたことが、その土器の遺跡から判明しています。

 温暖な気候で、豊かな食物があるところでは争いが起こりません。

 みなが平和で安らかに暮らしていた、これが日本人の気質として1万年以上に渡って形成されてきたという指摘がさまざまな歴史研究者によってなされています。

 これこそ、日本人としての気質のルーツといえるでしょう。

 この平和で豊かな暮らしが土台になって、上記の建築イノベーションが起きたのではないかと推察されます。

 世界の4大文明といわれている地域においては、かならず戦争が繰り返されており、その戦争に勝つため、負けないために巨大な構造物が建設されてきました。

 そう考えると、この両者のにおいては、イノベーションにおける本質的な違いがあったのではないでしょうか。

 ここに重要な意味がありそうで、その究明が重要なポイントになりそうです。

 巨大な建築イノベーションのもう一つの典型が、古代の出雲大社であり、その高さは45mもあったそうで、その社を直径1mの大木を3本束ねて6つ柱にして、その社を支えていました。

 また、今の出雲大社のなかを偶々修復の際に見学することができましたが、その社の建築には、幅1mの四角柱が長さ20m程度にわたって横木として仕組まれており、その樹々が今も生きて呼吸しているという説明を受けました。

 さらに幸いなことは、この出雲大社の本殿の一番上まで上がることができ、その屋根拭きの様子も直に観ることができました。

 そこでは、建物の隅の板には、当時の建設に関わった大工さんの書もたくさんありました。

 これらの六本柱遺構の写真と古代出雲大社の想像図を示しておきましょう。

 ③:血流促進とホルモンの関係が報告されました。

 食物の摂取や運動によって血管内の血液の流れが促され、それに伴ってホルモン物質の発生がなされるという因果関係が示されました。

 逆に、ストレス過多になると、その血流が滞り、ホルモン物質の分泌が弱まるという白湯についても指摘がなされました。

 その意味で、いかに血流促進を生起させ、ホルモンの分泌を盛んにするにはどうすればよいのかが重要となり、それには光マイクロバブル入浴が適していることが明らかにされました。

   また、アドレナリンとノドアドレナリンというホルモン物質の特徴と相違について討議を行いました。

 次回の第56回は、3月17日10時半から、大成研究所セミナー室で開催されます(つづく)。

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フリージャ(中庭)