長英の運命を変えたシーボルト(3)
シーボルトらの幕府の将軍謁見は無事成功しました。
これによって、かれは、幕府おかかえの御殿医をはじめ蘭学者、そして各藩において蘭学に傾倒していた侍たちなどにも迎えられました。
この江戸におけるシーボルトの評判は相当なものであったことから、若きシーボルトは、徐々に大胆になっていきました。
そのことに関するエピソードを紹介しておきましょう。
鰻と羽織
その第1は、眼科医で御殿医でもあった土生玄碩との「やり取り」でした。
土生玄碩は安芸の広島の出身であり、白内障を手術して治療することで医師としての評価を得て藩医となり、その後に幕府の御殿医にまで出生していった人物です。
その手術の際に、瞳孔を開く薬が重要であったことを知っていた土生玄碩は、江戸の将軍謁見にやってきたシーボルトにそのことを尋ねようとしましたが、それがなかなか承諾してもらえませんでした。
眼科医として白内障の手術を成功させるには、その散眼剤の薬品のことがどうしても知りたくて、その教示をシーボルトに懇願したのですが、「それは簡単には教えられないことだ!」といってシーボルトは跳ね返していました。
シーボルトは、その薬剤のことをよく知っており、その使い方も経験していました。
長崎の出島にやってきて、最初にかれが治療したのが目の見えない方であり、その開眼に成功させたことで、かれは「奇跡の医師」と呼ばれるようになりました。
おそらく、土生玄碩のところへも、その評判が届いたのでしょう。
かれは、シーボルトが鰻が好きだといってたくさんの鰻のかば焼きを付け届けしたそうです。
しかし、シーボルトの方も、その鰻を大変喜んだにもかかわらず、その薬の情報を頑として開示することはありませんでした。
「鰻ごときで、心変わりをするほどの軽い男ではない!」
こうおもっていたのでしょうか、シーボルトは、すでに将軍謁見という重大な権威を手に入れた医師でしたので、おそらく、かれにも、かなりのしたたかな魂胆がありました。
たくさんの鰻の贈呈によって、より親しくなった土生玄碩は、その後もシーボルトに面会して、散開剤の薬品の提示を求めますが、一方のシーボルトは巧みにそれを躱し続けた後に、巧みに交渉術に持ち込んでいったのでした。
その交渉とは、土生玄碩が拝領していた葵の御門入りの将軍の羽織と引き換えに、その薬草名を教えるというものでした。
土生玄碩は、眼科医としての知見を深め、より名声を高めるたけに、どうしても、その薬草名を知りたくて、違反と知りながらも、その指名された羽織をシーボルトに渡してしました。
しかし、シーボルト事件が勃発して、その羽織授与が幕府に知られて、土生玄碩の晩年は罰せられ、悲嘆のままに逝ってしまうことになりました。
高橋景保と間宮林蔵
第2は、幕府役人の高橋景保のことです。
かれは、書物奉行兼天文方筆頭として語学、地理学を修め、伊能忠敬の測量事業を監督し、「大日本沿海輿地全図」を完成させた人物でした。
シーボルトは、その地図こそ、オランダ政府が最も欲していたものとして、その獲得を要望されていたことから、この高橋に接近していきました。
一方の高橋は、これを歓迎し、互いに親しくなるなかで、樺太の地理を示したある西洋文献を得たいとおもっていて、そのことをシーボルトに話すと、シーボルトがそれを持参していることが判明しました。
当然のことながら、高橋は、その貸与を希望したところ、したたかなシーボルトは、それを日本地図と交換するという「取り引き」に持ち込んだのでした。
若いながらシーボルトは、この取引が上手であったことから、巧妙に高橋を説き伏せ、高橋から日本地図を得ることに成功したのでした。
その時、シーボルトは5年の任期を終えてオランダに帰る準備のなかにありましたので、最高のお土産として「日本地図」を持参することは、最高のオランダ政府への最高の貢献をなすことでした。
帰国直前に、シーボルトは、高橋景保に手紙を出し、そのなかに樺太探検家であった間宮林蔵宛の手書きと土産(織物)を同封しました。
それを受け取った間宮は、「みだりに外国人から手紙や物を受け取ってはいけない」という幕府の決まりにしたがって、その手紙と織物を幕府に届け出ました。
ここから、幕府の調査が始まり、高橋が国禁の日本地図を密かに手渡していたことが明らかになり、帰国のために船に積み込んでいたシーボルトの物品や資料が詳しく調べられました。
その結果、国禁の日本地図がシーボルトによって国外に持ち出されようとしたことが明らかになり、それを手助けした高橋は死罪となり、シーボルトは国外追放となりました。
結局、シーボルトは、自ら、その墓穴を掘る糸口を与えてしまった訳ですが、その行為においては、かなりの甘さがあったのではないでしょうか。
その帰国船は、台風のせいで座礁して壊れてしまいましたが、そこには日本地図や研究用に採取した植物標本など夥しいほどの資料があったそうです。
若さゆえの欲張りが、禍(わざわい)となったのでしょう。
この過剰な欲張りと台風が、シーボルトの運命を変えてしまったのです。
これらが無ければ、シーボルトはより優れた日本研究家として、かなりの名声を遂げた学者となったでしょう。
後にヨーロッパにおいて流行した「ジャポニズム」の主人公の一人であった葛飾北斎は、このシーボルトと同時代人であり、シーボルトは、葛飾北斎の芸術の良き解説者にもなってたに違いありません。
しかし、シーボルトは、この事件によって国外追放者となり、永久に入国できない身となってしまい、持ち出そうとした膨大な研究成果と資料も失うことになりました。
また、この事件は、鳴滝塾の塾生や娘であった楠本イネの運命にも小さくない影響を与えたのでした。
鳴滝塾の解散
シーボルトの国外追放によって、その主宰を失った鳴滝塾は解散に追い込まれました。
当時の塾頭であった高良斎と助手的役割を担っていた二宮敬作は、一時期捕縛されながらも、必死でシーボルトの無罪を訴えかけたことから、シーボルトの罪は、国外追放で済まされました。
しかし、シーボルトが長崎を出発した時には、二歳のイネを残したままであり、その面倒は、二宮敬作らに委ねられました。
この母親のタキと娘のイネも、波乱万丈の人生を重ねていきますが、そのことについては、別の機会にふれることにしましょう。
ところで、二宮敬作は、長崎払いを受けたことから、故郷の愛媛の宇和島に帰って医院を開業しました。
とくに、敬作の外科手術はすばらしく、それが評判となって宇和島藩の藩医にまで出世することになりました。
また、他の弟子たちも、そのほとんどが医者となって開業していったのですが、そのなかで唯一といってもよいほどに違う道を歩むことになったのが高野長英でした。
シーボルト事件によって、長崎のオランダ語通詞の吉雄権之助(よしお ごんのすけ)の弟が熊本にいたので、そこで、しばらくの間身を隠していました。
その後1年が過ぎてほとぼりが冷めてから、広島、大阪、名古屋と北上しながら、医者となって開業して生活費を稼ぎながら、講義、塾の開校などを行いながら、約5年ぶりに江戸に戻りました。
故郷に戻って高野家としての医者になることはせずに、江戸で医者となり、家族を持つようになりました。
周知のように、江戸は政治経済の中心でしたので、さまざまな国内外の情報が集積している場所でした。
すでに、日本の各地には、外国船が近づいてきたという情報が相次いでおり、幕府の老中たちは、これにどう対応するかで躍起になっていました。
このなかで、各藩においても海防をどうするかが重要な課題となっていました。
たとえば、長州藩の吉田松陰は、脱藩の罪を犯して、この海防調査のために東北地方の海岸を踏査して周ったのでした。
また、探検家と知られる間宮林蔵は樺太の調査を行い、それが島であることを発見し、その島と大陸に挟まれた海を「間宮海峡」と名付けました。
長英の次の自立
すでに前記事において、シーボルト事件後の高野長英の熊本から江戸までの足跡をたどると、それは、かれ自身の「自立への旅立ち」であったといえるでしょう。
シーボルトの下で学んだ医学やさまざまな調査研究、さらには、ドクター論文となった鯨の研究(鳴滝塾においては「鯨の長さん」と呼ばれていた)などの成果を、実際にどう活かし発展させて自己形成をなしていくのかが問われたのでした。
医師として開業をして生活費を稼ぎながらも、長英の関心は、政治経済、外交、文化、生活、農業などに広がっていきました。
このスタイルは、恩師であったシーボルトの学問観と非常によく似ていて、今は帰国していなくなったシーボルトの分身が、長英として存在していたのではないでしょうか?
この点が、長英の他の鳴滝塾の弟子たちとは本質的に異なる特徴でした。
他の弟子たちは、医師として開業、藩医として、あるいは御殿医として出生していったルートを歩んだのに比して、長英は、医学はおろか、他の学問を身に付けた広い視野の学者としての道をひた走っていったのでした。
ここには、当時の日本人には珍しく、そこに渡来人的性格があったようにおもわれます。
すなわち、高野長英は、単なる医者としての器に留まらない、気宇壮大な学者となる資質を有していたのではないでしょうか。
この江戸においては、大学者らしい、素晴らしい業績を積み重ねていきます。
そのなかで、最も長英に強い影響を与えたのが、尚歯会における渡辺崋山の言動であったのではないでしょうか。
ここに、長英自身の次の自己形成、すなわち、2つ目の「自立への旅立ち」があったようにおもわれます。
次回は、その崋山との出会いに分け入りましょう(つづく)。
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