東北の印象
 
 「先生、東北で凄いことが起きていますよ!」

 研究室でH専攻科生が、私にこう呼びかけてきました。

 かれが示したネットの映像を見ると、そこには仙台空港に津波が押寄せている様子が写されていました。

 「これは大変なことが起きているね!」

 それから、しばらくの間、その被災の様子を釘付けになって見続けていました。

 2011年、3月11日の午後のことでした。

 東日本大震災とそれに伴う大津波によって、福島・岩手・宮城地方を中心に大きな災害がもたらされました。

 「何か、私でできることはないか?少しでも社会貢献ができることがあれば、可能な限りの尽力をしてみよう!」

 折しも、高専教員として最後の年でありながらも、このようなおもいに駆られていました。

 そんなときに、科学技術振興機構(JST)の社会技術開発センターによる「東日本大震災緊急支援プロジェクト」の緊急募集があり、急いでこれに応募し、運よく5件のうちの1件として採択されました。

 この最終選考の過程で、高専教員の採択は初めてのことであったことから、いろいろと慎重な審議がなされたようでした。

 この時、採択の決め手になったのが、私の文部省科学研究費の採択リストでした。

 私は、どういうわけか、その日までに約20年余、毎年のように若手、試験研究、基盤B、基盤A、萌芽研究と採択を受け続けてきましたので、審査員のみなさんは、その実績をかなり評価されて採択を決られたそうでした。

 こうして、高専連携による初の緊急プログラムが実施されることになりました。

 被災地においては、一関高専と八戸高専からの参加がありました。

 このプログラムは、私を研究代表者として、「大船渡湾における大型マイクロバブル発生装置によるカキ養殖改善」という題目にしました。

 早速、2011年5月末に、一関から車で大船渡入りすることにしました。

 途中の陸前高田市では、あの「奇跡の1本松」が残っていて、一人で聳え立っていました。

 橋は、地震で落ちていましたので、上流まで遡って迂回しながら、ようやく大船渡湾に到着しました。

 その湾沿いの西側の市街地は、ほぼ全滅していて、何も残っていませんでした。

 この日から、現地の漁師のみなさんや市民の方々との交流が始まりました。

 現地において、いきなり困ったことは宿泊する場所がなかったことでした。

 被災しなかった宿屋は、ほとんどすべてが満員で、被災地支援に来られた方々によって予約されていました。

 仕方なく、水沢市まで帰って宿屋を探そうかとおもっていたら、一関高専の先生が、大船渡の新聞社に電話してくださり、一部屋を見つけてくださいました。

 そこは、大船渡湾の入り口近くであり、ここの御主人と奥様と知り合いになって宿の心配は無くなりました。

マイクロバイアグラ?

 また、ご主人は、漁協の組合員の方であり、かれの紹介で、光マイクロバブルのことを浜で話をしたことがありました。

 「マイクロバブルは、バイアグラと同じ機能を有していますよ。バイアグラのことはよく知っておられるでしょう」

 こういうと、みなさんが笑い始めました。

 「このマイクロバブルを発生させたところに、みなさんの手を突っ込むと血管が浮き上がって見えるようになります」

 ここで、さらにみなさんが、にやにやしていました。

 「この血管拡張が、バイアグラと同じなのですよ。みなさん、このお風呂に入ってみたくありませんか?」

 ここでゲラゲラと笑い始めるのです。

 「どうですか、あなたの手をこのなかに浸けてみませんか?」

 これですっかり仲良くなった関係になりました。

 漁師のみなさんは、魚が獲れる方法、金が儲かる方法、女性に気にいられる方法などのことが好きなので、光マイクロバブルに結びつくそれらの話をすると大いに受けました。

 さて、この日以来、最初は2週間ごと、しばらくして、ほぼ1か月ごとに翌年の3月まで、大船渡を訪れることになり、東北の自然と人間、そして海と大いに触れ合いました。

 この11か月間において、次の東北の良さを学ぶことができました。

 1)自然が豊かであり、とくに初夏から夏にかけての自然は素晴らしく、一関から北上山地を横断して太平洋側に向かう緑の美しさに感動しました。

 岩手県出身の詩人の石川啄木が、

 ふるさとの 山に向かいて いう事なし

 ふるさとの山は ありがたきかな

 やわらかに 柳青める 北上の
 
 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

と詠った心情が 少し解ったような気分になりました。

 2)山や野の幸、海の幸が豊富で食物が美味しかったことでした。

 とくに宿舎の手作り料理は格別で、舌鼓を打ちました。

   3)この豊かな自然と食物のなかで暮らす東北の人々は純真で人が良く、私たちの研究を温かく歓迎してくださいました。

 そうか、これが陸奥(みちのく)なのか!と感じました。

 歴史を遡れば、1万年以上にわたって、ここに縄文人が棲みつき、その後も弥生人と長く同居していたのが、この東北の地でした。

 この自然とヒトによって形成されてきたのが、かれらの歴史だったのです。

 高野長英も、その祖先の血を引き継いで、この豊かな東北の地で生まれ、育ち、自己形成をしてきたのでした。

 由緒ある後藤家の3男として生まれ、幼いころに高野家に養子として迎えられ、その高野家のいい名付けとして娘を娶ることになっていました。

 しかし、この契りの約束は果たされませんでした。

 それは、長英が家出同然で江戸に行って、二度と故郷に帰って棲むことはなかったからでした。

長英の運命を変えたシーボルト事件

 江戸から長崎へ、長英は、波乱万丈の人生を歩むことになります。

 そのなかで、かれにとって最も重大だったのが、シーボルト事件でした。

 次回は、ここからのかれの人生に分け入ることにしましょう(つづく)
 
 参考文献:
 鶴見俊輔著『評伝 高野長英』、中村整史朗著『小説 高野長英』、吉村昭著『破獄』

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