日本のヒマワリ(2)

 本日は、私と最も近い関係にある、ある女性に因んだ話を始めることにしましょう。

 あまりにも長い付き合いであること、そして共に高貴な高齢者をめざす仲となったことから、そろそろ、本ブログにおいて登場していただいてもよいのではないか、そうおもうようになりました。

 その際、かのじょのことを花にたとえると何にすればよいのか、これも相当に長く考え続けてきました。

 その結果として、「ヒマワリ」がぴったりではないか、とおもいたりました。

 その意味で、この「日本のヒマワリ」とは、「私のヒマワリ(2)」と言い換えた方がよいのかもしれません。

ヒマワリの涙

 それは、昨年末のある暖かい朝に起きたことでした。

 あるサンプルテストの演奏を聴いていた際のことであり、最初の曲は「慈悲深いイエス」を称えた祈りの歌でした。

 2番目は、落ち込んでいる人を立ち上がれと励ます歌であり、そして3番目は、昭和の名曲といわれている「涙そうそう」でした。

 この3番目を聴いている時に、この歌のように「涙そうそう」になっていました。

 このような姿を観たことがなく、

 「そうか、涙そうそうなのか!」

と、その涙の「わけ」を詮索しようしました。しかし、それは、よくわかりませんでした。

ーーー おそらく、よほどのことであったのであろう?

 そうおもいながら、「涙そうそう」の歌に聴き入りました。

 「一番星に祈る それが私のくせになり 夕暮れに見上げる空 ・・・・」

 思い起こせば、Y大学大学院を修了して、初めて就職したのが琉球大学でした。

 その大学は、今の首里城の地にありました。

 私が通った理工学部のビルは、あの有名な「守礼の門」のすぐそばにありました。

 当時の沖縄は、祖国に復帰して2年余であり、今とはずいぶん違っていました。

 未だ、車は右側通行、バスに乗ると停車を運転手に知らせるには、バスの窓に張られた紐を引っ張っていました。

 米や肉は安く、本土の約3割であり、ひとりでも十分に生活することができました。

 しかし、一滴もでない断水には閉口していました。

 初任給は7.2万円、そのうち家賃が3万円、親への仕送りが2万円、残りが私の生活費でした。

 しばらくは、独りぼっちでした。

 「まるで、異国にやってきたようだ!」

という気持ちを隠すことができませんでした。

 夕方になると、一番星といわれていた「シリウス」を眺めに屋上に向かう階段を上がっていきました。

 暮れなずむ鮮やかな南方の夕暮をよく見ては、「ここが私の居場所なのか!」と思いをめぐらしていました。

 やがて、暗闇が増して夜が訪れると、首里城跡地のビルから見下ろした那覇の夜景は、みごとにすばらしく、学生時代に見た函館の夜景よりも美しいと感じていました。 

 「涙そうそう」は、私の脳裏にも、このような思い出を鮮やかに蘇らせてくれました。

 さて、この「ヒマワリの涙」の正体は何なのでしょうか?

 まだ、途中ですが、どうやら、この物語は長くなりそうなので、真に中途半端ですが、この辺で筆を置き、その正体については、次回において分け入ることにしましょう(つづく)。

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ブーゲンビリア(沖縄市にて)