俊英(7)高野長英(4)
 
 吉村昭による次の長編を読破することができました。

 『ふぉん・しいほるとの娘』上・下巻

 『長英逃亡』上・下巻

 これらによって、高野長英に関する人物像をより深く理解することができました。

 本シリーズの執筆動機は、長英が意識的に用いた西洋の諺としての「須らく雫の石を穿つ如く」に関する文献探しにありました。

   「それは、シーボルトに関係しているのではないか?」

 という示唆を受けて、シーボルトにまつわる評伝や文献を調べていきました。

 また、高野長英は、1825年にシーボルトが開いた鳴滝塾に入りますので、そこでシーボルトと長英の直接的な交わりはなされました。

 これは、師の側のシーボルトにおいては、オランダ政府から委嘱されていた日本研究を促進することに長英が貢献しました。

 一方の長英にとっては、オランダ語とオランダ医学、そして西洋の学問や言語を習得することにおいて、いわば生きた指導がなされたことによって、あたかも乾いた砂に水が沁み込むように遂行されていきました。

 この鳴滝塾において、長英は19もの論文を執筆していたことから、いかに、長英が、シーボルトから与えられた課題に関して探究し、その成果を論文としてまとめ上げることにひたむきであったかが示されています。

 わずか2年余の間に、19もの論文化を成し遂げたことが、その後の長英の学者としての成長において非常に重要な土台形成となったように思われます。

長英とシーボルトの社会的関係

   ここで、長英とシーボルトの社会的な相互関係について、より深く分け入ってみましょう。

 その第1は、長英は、生きたオランダ医学とオランダ語を学びたくてシーボルトの鳴滝塾に弟子入りしようとした動機のことです。

 江戸において蘭学を学んでいた時は、吉田長叔という蘭学に関する優れた師がいましたが、かれが若くして亡くなり、師として学ぶ人物がいなくなったこと、そして、オランダ医学に関する文献も少なかったことから、「江戸で学ぶ1年は、長崎では半年になる」と判断するように至りました。

 ドイツ人とはいえ、起きたオランダ語を話し、オランダ医学を目の前で実践し、教えるシーボルトは、長英にとって夢にまで見た師であり、まさに、生きた教材でもありました。

 このシーボルトの教えと指導によって、長英のオランダ語と蘭学、さらには西洋の学問に関する英知を養成する端緒が切り拓かれたのでした。

 第2は、すでに述べてきたように、オランダ政府がシーボルトに要請した総合的な日本研究を行うことにおいて、シーボルトは、その実施を鳴滝塾の弟子たちに具体的な課題を与えて論文にまとめ上げて提出させるという巧妙な方法を見出し、その論文化において最も優れた成果を出したのが長英であったことでした。

 そのことは、シーボルト自身による日記のなかでも記されていました。

 ここで非常に重要なことは、単なる調査研究なのか、その成果をまとめて論文化することなのか、において大きな違いがあることです。

 それは、後者の過程においては、前者の過程にはない、新たな考察や理論、推察が可能になることであり、それによって課題に関する本質的な理解を行う可能性が生まれてくるのです。

 第3は、この第二の課題を遂行するにあたり、長英は、シーボルトの医学力のみならず、幅広い日本研究の課題に関する問題意識を汲み取り、本物の学者としての医学および医療の社会性に関する見識と幅広い教養を身につけることができるようになったことでシーボルトに近い研究者としての土台形成がなされたことでした。

 シーボルトの一人前の研究者としての教養は、父親を始めとするヴュルツブルグ大学の歴代教授を始めとする家系による教えや同大学学長代理であったデリンガー教授による直接的教育をシーボルト自身がギムナジウム生後半において直接受けたことによるものでした。

 この特徴は、医学のみならず、動物学や植物学、物理学など幅広い科目の教えを受けたことにありました。

 この資質を身につけたシーボルトであったからこそ、オランダ政府の要請を受けた日本に関する総合的研究の内容が、自分が求めていた日本研究の内容とほぼ一致し、かれ自身が積極的
に活動する根幹になったのでした。

 その意味で、シーボルトの日本研究は、一流の研究者になるために自立していく過程において与えられた仕事であり、同時に、自らが望んだ課題だったのです。

 第4は、長英が、家出同然で、すぐ上の兄と上京し、生計を按摩で維持しながら蘭学の勉強に励み、その途中で兄が病気になっても看病を行い、そして、その兄が亡くなるのを看取っても尚励み、自らが指示していた師が早く亡くなると、それを補う塾頭の役割を果たすまでに至っていたもです。

 これは、長英が、まず、人間としての自立をめざし、そして蘭学塾における師の代替を遂げるまでの学問的自立に接近していったことを示唆しています。

 すなわち、長英は、人間としての自立と蘭学者としての自立を目指して修行を重ねていた過程を経て、シーボルトに出会い、鳴滝塾への弟子入りを果たしたのでした。

 またそこで、本物の師と出会い、与えられた課題の調査研究を行い、さらにはそれらの成果を論文化するということによって、まさに乾いた砂に水が沁み込むように、蘭学の粋を学び取ることによって、本物の学者としての資質を身につけていったのでした。

 長英は、シーボルトよりも二歳年下でしたが、ともに力を合わせて医学や日本研究に勤しんだ姿は非常に魅力的だったのではないでしょうか。

 こうして、長英は、優れた本物の学者として活躍する土台を築いていきました。

 ここに、門人であった福田宗禎に長英が贈った格言があり、それは、宇和島の五岳堂という塾の学則の第一条にも示されていて、本記事の表題にも示されています。

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長英が贈った格言(奥州市公式HPより引用)
 
 このきれいなオランダ語の言葉は、長英自身が記したものだと説明されています。

 長英は、わずかな力しかない雫であっても、それがやがて石を穿ち、壊すこともある、このような意味の言葉を、さまざまなところで繰り返し、使用しています。

 こう、心に銘じて高貴な学者としての道を歩もうとしたのではないでしょうか。

 そして、約6年間にわたる「逃亡者」としての生活のなかで、鍛えられ、より洗練されていったことによって、多くの人々に小さくない影響を与える学者としての進化を遂げていったのでした(つづく)。

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家内の活花
 
 参考文献:
 鶴見俊輔著『評伝 高野長英』、中村整史朗著『小説 高野長英』、吉村昭著『破獄』