K先生との面会

 10月16日は、当初、CD収録の予備日とされていましたが、その収録が前日で終わりましたので、丸一日空くことになりました。

 そこで、沖縄の大学の元学長で、かつての家内の大学での同僚でもあったK先生と面会することになりました。

 私は、このK先生の夫であったKK先生と長く深い付き合いをしていましたので、その自宅に立ち寄った折には、このK先生とも親しく語り合っていました。

 しかも、このK夫妻の長女のAさんに非常に気に入られてしまい、親子共々親しい仲になりました。

 K先生とは久しぶりの面会でしたので、那覇市のリュウボウ前で待ち合わせをして、その地下街の沖縄料理店で食事をしました。

 この店では、本格的な沖縄料理をいただくことができましたので、私は、イナムルチ定食を御馳走に与りました。

 この「イナ」はイノシシのことですが、今では、その肉が手に入らなくなっていますので、その代りに豚肉が入っていて、味噌仕立ての豚汁によく似た料理であり、他にコンニャクやカマボコなども入っていて、具沢山の汁です。

 これは、琉球王朝があった首里における郷土料理としてもよく知られています。

 この食事中も、互いの情報交換がなされ、しばらくの間の互いの情報不足を補うやり取りがつづきました。

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鳳凰木の花

存分の懇談

 この食事で約1時間、その後喫茶店で約2時間、K先生とは、たくさんの内容の懇談をおこないました。

 そのなかで、沖縄音楽の母と呼ばれている金井喜久子さんのことが話題となりました。

 金井さんは、日本人の女性作曲家として初めて交響曲を作曲された方であり、1972年の沖縄本土復帰式典が日本武道館で開催された際に、祝典序曲「飛翔(はばたき)」を作曲されました。

 2026年は、彼女の生誕120周年となることから、この金井喜久子プロジェクトが結成され、K先生は、そのプロジェクトの中心人物として活躍されていました。

 この紹介が、K先生から少し紹介された際に、家内から「私、金井喜久子さんに会って話をしたことがあります」という思いがけない発言があり、これにはK先生が吃驚仰天されました。

 もちろんK先生ほか、多くのみなさんは金井さんに会ったことはなかったことから、ここで偶然とはいえ、面会者が、しかも、K先生の知り合いにいたことは、非常に重要な出来事でした。

 家内は、M大学の女子寮に入っていましたので、たまたま、金井さんが近くに住んでいたことを知り、いきなり自宅を訪ね、無謀にも面会をやってのけたそうでした。

 金井さんは、突然の訪問者を少しも嫌がらず、同郷の好と思われたのでしょうか、快く受け入れ、歓談してくださり、土産に金井さん作曲の楽譜をくださったそうでした。

 ただそれだけのことでしたが、金井さんは見知らぬ同郷の若者に会ってくださり、音楽家の卵でしかなかった家内を励ましてくださったようで、そのことは若き家内のよき思い出になったのでした。

 おそらく、K先生は、これを聴いて、金井喜久子プロジェクトのみなさんに、生きた証言者がいたことを紹介したことでしょう。

 真にユニークでおもしろい話でした。

 また、K先生には、私の沖縄恩納村における植物工場に関する、これまでの発展状況を説明し、それが沖縄のみなさんに注目されている事例についても紹介しました。

 さらに、K先生からは、お子さんのAさんがH市で立派に福祉事業において活躍していることが紹介され、私も関心深く拝聴しました。

 最後には、K先生の亡き夫であったKK先生との話においても互いに盛り上がり、懐かしく思いました。

 こうして、合計で3時間余のK先生とのビッグ懇談がなされました。

 家内は、K先生と同じ大学の職場に居たことから、それ以来51年にわたる付き合いですので、その喜びに満ちていました。

 私としても、KK先生とK先生に大変お世話になり、小さくない励ましを受け続けてきましたので、引き続き、深刻な経済状況にある沖縄に対して、改めて何を為すべきかを考えるよい機会を与えてくださったと感謝いたしました。

旅の終わりはオリオンビール

 ホテルに帰ってからは、地元産のオリオンビールを購入して、家内と二人でささやかな乾杯をしました。

 「これで今回の沖縄紀行も、すべてを熟すことができました。

 明日は帰るだけになりましたね」

 こういうと、家内も嬉しそうでした。

 窓外には、那覇港の桟橋が見え、潮が満ちていました。

 ずいぶんと長い連載になりましたが、ここで本沖縄紀行を閉じます。

 有意義で、ゆかいな旅でした(本稿おわり)。

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    お土産にもらったヘチマ(ナーべラー)、この料理が絶品でした