俊英(6)高野長英(3)
高野長英(1804~1850)が鳴滝塾に弟子入りしたのは1825年8月であり、若干21歳のことでした。
鳴滝塾においては、すでに数多くの弟子たちが参集しており、その多くは長英よりも年上の方でした。
鳴滝塾の初代塾頭の美馬順三は、長英が鳴滝塾に弟子入りする約2カ月前に、コレラにかかって亡くなっており、次の塾頭となった岡研介(おかけんかい)が長英の弟子入りに関する取り扱いを行いました。
一方、シーボルトは、長崎の出島に赴任して3年目を迎え、鳴滝塾の弟子たちと共に活発な活動を展開し始めていました。
シーボルトの2つの側面
オランダ政府は、かれを日本に派遣するにあたり、日本の政治経済、自然、文化、風習まで含めて総合的な研究を行うことを要請していました。
これは、オランダ政府が、江戸幕府との交易量が年々減少しているなかで、それを抜本的に回復させるために、優秀な医師としてのシーボルトを派遣して、医学だけでなく、総合的な日本研究を行うことによって交易の復興を目指したのでした。
それゆえ、オランダ政府は、シーボルトの要請を受けて、ほとんどかれが望んだ財政的支援を行い、長崎の出島にあったオランダ商館長や商館員も、かれを支援するように命じていました。
これを受け、シーボルトは、医者という特技を生かして、これらの治療を行うことで長崎奉行とオランダ通詞の信用を得て、出島の外での往診と治療や薬草の採取を行う許可を得て、徐々に長崎市民にも評価されるようになりました。
このシーボルトの初期作戦は、非常に上手くいき、長崎奉行、オランダ通詞、長崎市民などに好意的に評価され、「奇跡の医師」と呼ばれるようになりました。
そして、この評判は、たちまち全国的に流布されるようになり、全国からオランダ医学を実際に学ぼうと、若者たちがシーボルトが開設した鳴滝塾への弟子入りのために押し寄せることになりました。
ここでシーボルトは、次の2つの作戦を新たに実践し始めました。
その第1は、オランダ政府の要請に基づいて、日本における政治経済、外交、自然、文化、言語、地理、生活など広範囲の分野における日本研究を行い、その成果を報告することでした。
第2は、自ら身につけた西洋医学の成果を日本に実践的に普及すること、そして、自らが望んだ日本の植物学、動物学の研究を遂行することでした。
これらは、シーボルトが若いころに教えられた幅広い学問観であり、それを基本として創造的に日本研究を行うことを希望していました。
これらの幅広い研究課題を合理的に探究し、かつ効率よく成果を生み出す方式として、鳴滝塾に集まってきた弟子たちに個別の研究課題を与えていきました。
そして、その成果を論文として書かせたうえで、その優れた研究成果を修めた弟子には、「ドクトル」という称号を与えました。
このドクトル作戦は、上記の2つの課題を共に実践することができる、じつに巧妙な優れたものでした。
勤勉で真面目、粘り強く、好奇心旺盛な日本の若者たちは、このシーボルトの教えと要請を真正面から受け留め、ひたむきに実践していったのでした。
岡と長英
なかでも高野長英は、優れたオランダ語学力を発揮したことから、そして、物事の要点を解りやすくまとめることにも秀でていたことから、塾頭の岡研介とともにシーボルトに絶大な信頼を得るようになりました。
岡は、長英が苦手だったオランダ語の会話力に優れていたことから、シーボルト、岡、長英の3者による会合や仕事が増えていきました。
その結果、長英は岡とも親しい仲になり、互いに、シーボルトが何を望み、何をしようとしているのかについて語り合うようになりました。
その中心的内容は、オランダ政府がシーボルトに要請したことに関して、シーボルトが何をしようとしているのか、さらには、何を望んでいるのかに関することでした。
そのなかでも、シーボルトが最も欲していたのが日本地図であり、日本各地の地理情報であることを理解し始めたことから、それが非常に危険なことであることに関しても理解を深めていました。
そのせいか、岡は、自ら塾頭を辞し、鳴滝塾を離れて故郷の山口県平生町に帰って医者になりましたが、その後、精神的に病み、死亡してしまいました。
また、長英は、熊本に出かけていたことから、シーボルト事件による幕府の取り調べから逃れることができました。
ここから、長英の逃亡生活が始まり、蛮社の獄における自首、脱走、逃避行という「逃亡生活」がなされるようになりました。
長英の生涯
これらの生涯を俯瞰しますと、次のように区別されるように思われます。
第一期:水沢から兄と一緒に家で同然で江戸に行き、按摩をしながらオランダ医学を学び、塾頭の役割を果たすまでに成長した。
第二期:鳴滝塾に入門し、シーボルトの要請に基づいてさまざまな課題研究を遂行し、ドクトルの称号を得、塾頭の岡と共に、シーボルトの仕事を支えた。
第三期:渡辺崋山との知己を得たが、蛮社の獄において自首し、囚人生活を行ったこと。
第四期:脱牢し、全国を逃亡しながらも学究を続け、優れた業績を残した。
これらのいずれの時期においても、長英が一貫して大切に思い、ひたすら蛍雪を重ねたのがオランダを始めとする医学、言語、食物学、兵学、文化、哲学など広い範囲の学問を修めようとしたことでした。
この学問による自立の積み重ねと成長が、かれの不屈の人生を形成させていったように思われます(つづく)。
参考文献:鶴見俊輔著『評伝 高野長英』、中村整史朗著『小説 高野長英』
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