アルルのヒマワリ(4)
今一度、ゴッホの画家としての生活を振り返ってみましょう。
大人の年齢になって、かれは、さまざまな職業を選択しようとしますが、いずれも、それらに適合しなかったことから、弟がパリで画商をしていましたので、そのアパートに突然やってきて住み込みました。
パリにやってきたゴッホの背景
このパリで、ゴウギャンやモネらの印象派の画風に触れて、最先端の画風に自分が相当遅れていたことを知ります。
画家として生きていくためには、それらの新たな画風を学び、修行していくことの重要性を認識するようになりました。
そのことが、数々の自画像の絵画に色濃く示されています。
一方で、1867年の開催された第5回パリ万国博覧会における日本の浮世絵などを中心にした「ジャポニズム」は、西洋人に小さくない影響を与えるようになり、ゴッホも、その一人になりました。
かれは、1867年に開催されたパリ万博において披露された葛飾北斎や歌川広重らによる浮世絵などによって空前の日本ブームが起き、それがジャポニズムとして評判になっていた最中にパリにやってきて、その影響を直に受けた画家のひとりでした。
続いてパリに生起した大事件が、1871年に起きたパリ・コンミューンでした。
これは、パリの労働者階級を主とする民衆の社会主義革命による世界初の政権でした。
しかし、この政権はわずかに72日間しか続きませんでしたが、その思想は、その後のパリの民衆のなかに息づいていました。
3つの重要な出来事
ゴッホが、パリにやってきたのは1986年ですので、そこでは、これら3つの重要な出来事が、その背景として起きていたのです。
①印象派画家たちの活発な絵画運動 1870~80年
モネやルノワールなどの代表される。
②ジャポニズム 19世紀後半から20世紀初頭
葛飾北斎、歌川広重らの浮世絵が最も影響を与えたとされている。人物の捉え方、大胆な構図、遠近法の絵画法、自然の理解の仕方などにおいて、かれらは、パリの画家たちや画法と比較して格段に優れていたことに気付いた。
➂パリ・コンミューンによる民衆文化の発展
ゴッホによる「タンギー爺さん」において典型的に表現されている。かれは、パリ・コンミューンに参加していた民衆の一人でああった。パリ・コンミューン政権が崩壊した後は、小さな画商を営み、貧乏画家となっていたゴッホを何かと支援していた。
おそらく、タンギー爺さんは、ゴッホのひたむきな絵画絵に取り組む姿勢、無私のやさしい心を前向きに評価し、親身な支援をしたのではないか。
これらを背景として、パリに赴いたゴッホが、画家として生きていくことを決め、画家としての修行を本格的に開始したときの心情に分け入ってみましょう。
若きゴッホとは、どのような人物だったのでしょうか?
絵が好きだった青年ゴッホは、最初に画商に就職しますが、職場に馴染まずにすぐに退社しました。
その後、教師になりたくて勉強を行いますが、これも実現しませんでした。
さらには、父親と同じ牧師になろうとしましたが、肝心の父親に反対されて、これも叶いませんでした。
ゴッホにとっては、ほとんどすべての道が閉ざされたことから、頼るのは、弟のテオだけだと思って、かれのところに転がり込んだのでした。
おそらく、ゴッホは、そこで最も信頼していたテオとじっくり話し合ったのではないでしょうか。
テオは、兄のゴッホが生まれつきに絵が上手かったこと、画家になろうと真剣に決意していたことを好意的に理解して、支援を行おうとしたのではないでしょうか。
ゴッホは、この弟が支援するという心情を非常にうれしく思い、画家としての修行を真摯に取り組んでいったのだと思います。
この修行において、後に印象派といわれるようになる新進気鋭の画家たちとの交流が非常に刺激的であり、有益だったのではないでしょうか。
しかし、この刺激性と有益性は、印象派の画家のみなさんから受けただけでなく、じつは上には上があったのです。
それが、葛飾北斎や歌川広重などに代表されるジャポニズムでした。
このことは、パリ時代におけるゴッホの自画像や他の人物像によく現れています。
最初は、自分自身の自画像を描くことによって修行を重ねていきました。
ほかに他の人物を描くほどの知人や経済的余裕もなく、自分を描いて修行を行うしかなかったのではないでしょうか。
しかし、ここから、かれなりの成長や発展がなされ、そのことの典型が、タンギー爺さんの絵画でした。
かれの親身な支援に感謝して、かれを描くことをお願いし、ゴッホは、その背景に、あこがれの日本画をいくつも挿入したのでした。
すなわち、自画像の到達点として、そしてパリ・コンミューンにおける労働者階級を主体にした民衆の生活観、さらには、絵画の目標としての浮世絵など、これらが一体となってゴッホの画家としての成長が為し遂げられていったのです。
弟のテオは、このゴッホの画家としての成長を喜び、一緒になって浮世絵を50数枚も集めたそうです。
アルルは日本
そこでゴッホは、フランスの日本は、パリではなくアルルにあると判断し、南へ下ったのでした。
明るい太陽の下で、農村と海がかれを迎え、そこで、自分の画風を見出そうと懸命になって、かれは絵を描き続けました。
おそらく、そこに画家としての成長を遂げてきた確かな手ごたえを感じ始めたのではないでしょうか。
そして、アルルのなかに日本を見出し、日本での浮世絵の製作活動における共同と同じものとして、そこに友を呼んで共同の絵画活動を思いついたように思われます。
その新たな希望と成長のなかで、描き続けたのが「ひまわり」でした。
すでに述べた来たように、そのひまわりの絵画は、第3作目においてブレイクスルーします。
ひまわりは、みな活きていて、その数も12本に増えました。
色調も黄色とオレンジ色で、第二作とは打って変わって明るく描かれ、12本のひまわりが鮮やかに描かれていました。
この実画を、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにおいて二度拝見し、その迫力に圧倒されたのでした。
真にお人好しで、自分のことよりも他人のことを大切にするゴッホが、それぞれ12人の画家の友人たちを思い浮かべて、これらのひまわりを描いたのではないでしょうか。
それゆえに、そのひまわりたちも生き生きとしていて、それを描くことで、ゴッホの画家としての成長が、ある峰を越えたのではないかと感じました。
以上にように、ゴッホの心情に分け入りながら、12本のひまわりまでを再考してみました。
印象派の友人たち、パリ・コンミューンの生き残りの親切、浮世絵の達人たち、これらが、一人アルルに到着して融合し始めたことで、このひまわりの第三作へと結びついていったように思われます(つづく)。
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