俊英(5)高野長英(2)
 
 高野長英(1804~1850)が鳴滝塾に弟子入りしたのは、1825年8月21歳のときでした。

 鳴滝塾においては、初代塾頭の美馬順三が不慮のコレラで亡くなり、2代目の岡研介が塾頭として活躍していました。

 かれは、オランダ語において非常に有能な才を発揮して、とくにシーボルトとの会話においては、かれの右に出る者はおらず、第一人者としての信頼を得ていました。

 また、高野長英は、岡や二宮敬作らとは約2年遅れでの入塾でしたが、オランダ語の読解力と執筆力において、ずば抜けた能力を見せたことから、すぐにシーボルトに注目されるようになりました。

 シーボルトは、オランダ政府から、多分野における日本研究を行うように指示されていましたので、それらを効率よく、確実に遂行させる方法として、弟子たちに個別のテーマを与えて調査研究させ、その成果を論文として書かせる指導を行いました。

 そして優れた成果を修めた者には「ドクトル」の称号を与えるようにしました。

 この博士号を授与する方式は、今の日本においても採用されており、それによって研究の発展と権威付けがなされているように思われますが、その原点は、このシーボルトにあったのではないでしょうか。

 入門してすぐの高野長英は、シーボルトから、「活花(いけばな)」の研究をするように命じられました。

 医学を学びに来たのに、活花とは、と奇妙に感じましたが、それでも、かれは嫌とはいわず、むしろ積極的に取り組みました。

 長崎にいた高名な老活花家を紹介していただき、そこに通い詰めて、活花の歴史、技法、精神の教示を受け、それらをまとめてオランダ語での論文を短期間に作成したのでした。

 これをシーボルトは非常に喜び、高野長英の類まれな調査研究力とオランダ語の学力の高さを評価したのでした。

 鳴滝塾においては、週に1回のシーボルトによる講義や手術の実験を受けて学びながら、それとは別に、シーボルトからは長英に、個別の研究課題が与え続けられたのでした。

 こうして、長英の調査研究に基づく論文の執筆数は、鳴滝塾のなかでも群を抜くようになりました。

長英の才能

 以下は、論文数の比較です。

 高野長英 11 (鳴滝塾が開設されて2年後に弟子入り)

 高良斎   7 (三代目塾頭)

 美馬順三  5 (初代塾頭)

 石井宗謙  4 (シーボルト事件後も鳴滝塾の運営に携わった中心人物の一人)

 吉雄権之助 3 (オランダ語の通詞、シーボルト事件で捕縛)

 岡研介ほか 1 (二代目塾頭)

 これからも明らかなように、長英は、シーボルトの要請を受けて、短期間にオランダ語の読み書きの腕を上げて、その論文化において抜群の活躍をしたことが示されています。

 また、長英が執筆した代表的論文を次に示しておきましょう。

 「活花の技法について」

 「日本婦人の礼儀作法および婦人の化粧ならびに結婚風習について」

 「小野蘭山の『飲膳摘要(日本人が食べるものの百科全書)』

 「日本における茶の栽培と茶の製法」
 この茶の研究によって、その種子をインドに送り、インドにおけるお茶栽培を成功させたことが長英の成功事例として注目されています。

 「日本古代史断片」

 「都における寺と神社の記述(『都名所車』の訳本」

 「琉球島に関する記述(新井白石『南島志』の抄訳」

 「鯨ならびに捕鯨について」
 *この論文でシーボルトから「ドクトル」を受けている。

 わずか、2年あまりで、これらの論文ほか11編を書き上げたことから、いかに長英の調査研究力と語学力が優れていたかが明らかであり、それによって、シーボルトからは小さくない信頼を受けるようになっていました。

 当時の鳴滝塾においては、岡のオランダ語の会話力、長英の読み書き力が双璧の存在になっていました。

岡研介と高野長英

 このころ、岡塾頭と長英は、毎日のようにシーボルトの部屋に呼び出されては、かれの仕事の手助けと依頼を受けて忙しくしていたようです。

 そのこともあって、岡と長英は非常に親しくなり、互いの立場と与えられた仕事の件や今後の行く末のことをよく話し合っていたそうです。

 その話題のなかのひとつが、シーボルトの日本研究の幅広さの問題であり、長英にとっては、上記のように鯨の問題以外は、医学と関係のないテーマばかりだったので、はたして、これでよいのかという思いがあったようでした。

 それは、日本におけるシーボルトの真の狙いは何であるのかを見究める問題でもありました。

 「シーボルト先生は、日本の幅広い事柄に関心を持っておられるようですね。

 ここにきて、まさか活花のことや、お茶の栽培について研究させられるとは思いませんでした」

 岡は、次のように応えました。

 「シーボルト先生の視野の広さは凄いですね。

 オランダ政府から、その日本研究を行うようにと指令されてのことだと思いますが、それにしても、さまざまな分野における飽くなき研究姿勢には驚かされます。

 本当に、日本の多くの自然や社会のことを研究することがお好きなようで、その情熱を私たちは学ばなければならないと常日頃から感じています」

 「そうですか。あなたも、そのように考えられていることを知り、安心しました。

 先生から、クジラの研究をせよといわれた時には、医学とどのように関係するのかが解りませんでしたが、クジラは同じ哺乳類だから人間と同じだと後になって気づきました。

 それから、捕鯨に関しては、クジラの脂が非常に高価な商品となっていて、世界中の船が捕鯨をするために日本近海に集まってきており、そのことが日本の重要な外交問題に深く関係していることも知るようになりました。

 さすが、シーボルト先生の視野の広さと社会性は鋭いですね」

 「あなたも、そう思われていましたか。

 あのような先生に毎日接していると、どこまで、先生は探究されていくのかと思い、正直いって少し怖くなることもあります。

 長英さん、あなたは、どう思われていますか?」

 「そういわれてみると、そのように思うこともありますが、そこは、生い立ちと育ちの違いといいましょうか、やはり私たちとは違う学者魂や哲学を持たれているのではないでしょうか?

 先生から、その奥の処をもっと深く学びたいと思っていますが、はたして、どこまで行けるのか、私にもよくわかりません」

 「なるほど、長英さん、これからも、互いにシーボルト先生のために尽力していきましょう」

 二人の話は、夕闇迫る出島の海岸において、さらに続いていました(つづく)。

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シーボルトが愛した紫陽花
 
参考文献:鶴見俊輔著『評伝 高野長英』、中村整史朗著『小説 高野長英』