尚寧王(2)

 琉球オペラ『アオリヤエ』は、その副題の「ようどれに眠る愛」にあるように、主人公の妃であったアオリヤエとその夫であった尚寧王の愛の物語です。

 ここでいう「ようどれ」とは、沖縄の方言で、「夕凪」や「静かな場所」、「墓」を意味しています。

 沖縄県浦添市には、この尚寧王とアオリヤエが眠る陵墓があります。

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尚寧王(ウィキペディアより引用)

 名君といわれた尚寧王ですが、最大の外的悲劇に襲われた王でもありました。

 かれは、歴代の王とはやや異なっていて、江戸幕府や薩摩に翻弄されながら、艱難辛苦の人生を余儀なくされた方でもありました。

 先代の首里尚家の第6代王に男子がなかったことから、その継承役として尚寧王が選ばれました。

 かれは、歴代の王と比べて民衆を大切にしたそうで、当時の浦添城から首里までの道路や橋の建設に自ら携わりました。

 また、尚寧の妃として選ばれたのが、首里尚家の娘の一人であったアオリヤエでした。

 彼女は、民衆に混じって道路づくりを行う尚寧を観ながら、それを見守っていました。

 しかし、首里尚家の直系ではなかったことが、さまざまな問題を起こすことになりました。

薩摩の侵略

 しかも、そのなかで最大の問題が、先代王の時代において、豊臣秀吉の朝鮮出兵の命令に従わなかったことから、徳川幕府と薩摩藩によって侵略されるようになったことでした。

 尚寧王は、その薩摩軍に対して抗戦しますが、兵力の差は歴然としていたことから、すぐに降伏せざるを得ませんでした。

 その結果、尚寧王など200名は薩摩に幽閉され、その間に、かれは駿河で徳川家康に拝謁、江戸では将軍徳川秀忠に面会させられました。

 その後、2年もの長きにわたる幽閉生活を経て、薩摩への忠誠と年貢などの掟を誓わされ、沖縄に帰ってきます。

 そして、また、道路づくりを再開し、今度は、薩摩だけでなく中国の明とも仲よく外交する道を選び、琉球王朝の発展の礎を築いていきました。

 これらには、妃のアオリヤエもともに参加し、尚寧王を支えるために尽力しました。

 しかし、2年の長きにわたる幽閉によって尚寧王は身体が蝕まれ、道路づくりの最中に倒れ、帰らぬ人となりました。

 この波乱に満ちた尚寧王とアオリヤエが互いに信頼し合い、愛するようになって助け合うことを主題としたのが、この琉球オペラ『アオリヤエ』でした。

 このオペラの芸術監督と作曲を行ったのが、先に紹介した新垣雄(あらかきかつし)さんでした。

 かれを含めて、その大多数が浦添市出身の歌手、合唱団、舞踊団他であり、郷土のオペラ演者たちだったのです。

 冒頭は、琉球王朝の舞踏から始まりました。

 華やかさと、格調の高さの「かぎやで風」の歌と踊りに圧倒されました(つづく)。

タイトルなし
琉球オペラ『アオリヤエ』パンフレットから引用