高貴高齢者とは
先日、拝読した『沈む日本4つの大罪』植草一秀・白井聡著、ビジネス社のなかで、植草さんがおもしろい指摘をしていました。
それは、「後期高齢者」に対して、医療費3割負担などによって、ひどい仕打ちがなされていることに反論して、その世代は、これまでの日本を形成してきた高貴な方々であり、「高貴高齢者」と呼んだ方がよいということでした。
これは、なるほどよい指摘だと思って、私も、その世代の一人として、この名称を適用することにしました。
じつは、今年の1月に、かなりの病気にかかり、ある機器の使用による治療を受けました。
その1回の治療費が9800円でした。
なぜ、そんなに高額なのかと思い、家内に尋ねてみると、「今年から後期高齢者になったので、医療費が3割負担になったからですよ」といわれました。
「そうだったのか!」
不幸にも、その発病は、後期高齢者になってすぐのことでした。
一緒に治療を受けていた高齢者の方は、その治療費が3000円だといっていましたので、私とは、えらい違いだと思いました。
また、ある高齢者の女性とは、次のような会話を行いました。
「これは大変高価な治療になりますね。重要な治療ですので、高価だからといって治療しないということはできませんが、これが長く続くとなると困りますね!」
「そうですよ。これだけ治療費が高くなると、頻繁に病院にいくことを躊躇してしまいますね。
最近は物価も高くなって、生活も楽ではなくなりました」
「お年寄りを大切にしない政府、これはいけませんね!先日も、駅の駅の待合室で、男性のお年寄りが、サンドイッチを買って、高い、高い、高いと大きな声で3回いっていました」
「そうですよ、何もかもが高くなっています」
「先日、駅から病院までタクシーに乗りました。
その運転手が、こういっていました。
タクシーのお客さんのほとんどは女性の高齢者であり、そのほぼ100%が病院へ行く方々でした。
そして、その女性は、みな近くのディスカウントショップにいって安い商品を買って帰っています」
高齢者になっても、食べることを止めることはできないので、安いところを探して買い物をする、このような女性ばかりだといっていました。
ここには、世も末、追い込まれた女性高齢者の姿があるように思われました。
さて、「後期高齢者」が、どのようにして「高貴高齢者」になっていくのか、これが本記事の主題です。
その余生を、どのようにして「誉生」にしていくのか、これも重要な課題ということができますね。
高貴な出来事
そこで、私の最近のことを振り返ってみましょう。
ブログの執筆は、以前からのことであり、これをことさら高貴というのは、おこがましく、そこまで厚かましくはありません。
今や、日常の普通のことですので、除外して考えるのがよいでしょう。
最近、毎日のように緑砦館に入り、アグリ作業を行っていますが、これも、自分と家族の健康のためですので、ことさらに高貴な務めということはできそうにありません。
野菜たちの発芽を喜び、すくすくと苗にし立っていく姿に励まされる、そして、それらが大きく成長して収穫し、感謝をしながら賞味する、これも生活の一部として普通に定着していることですので、これを新たに高貴なことだということもできそうにありません。
それでは、何か、新たに、それに該当するものがあるのか?
と尋ねられそうになりますね。
じつは、数か月前から、20歳代前半のD君と一緒に始めた実験が、それに該当するのではないかと思い始めています。
月水金の17時から約1時間と時間が限られていますが、かえって、この方が、ややゆっくりのペースとなっていて、その間に、実験結果を考究する余裕もできて、おもしろい試みとなっています。
この結果については、すでに、その一部を「OIだより」において明らかにしてきていますが、徐々に未知の問題の究明が進んでおり、その成果は、「高貴なもの」といえるのではないかと判断しています。
なぜ、それが高貴なのか?
それは、D君との共同の実験結果が、未知の問題であった世界を切り拓き始めたからであり、そのことに小さくない科学的意味を見出したからでした。
その意味とは、「高貴な創造」と言い換えてもよく、それは、次の2つの創造を必要とするものでした。
①新たな現象を見出したことによって、その一番単純でわかりやすい、単体としての物質的定義を明らかにする。
②すでに現象的には、優れた成果を修めてきていることですが、その真の理由や現象のメカニズムが不明のままであり、それらを詳しく究明する。
これらは、「光マイクロバブルフォーム」と新たに定義された物質のことであり、それを用いた洗浄技術に関することでした。
次回は、D君と共に切り拓いてきた「高貴な創造」について、より具体的に、より深く分け入っていくことにしましょう(つづく)。
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