俊英(3)高良斎(こうろうさい)
鳴滝塾二代目の塾頭であった岡研介の後を継いだのが高良斎(1799~1846)でした。
かれは、初代塾頭の美馬順三と同じ阿波の出身、眼科医の高錦国の後継ぎとして養子に迎えられ、幼いころからオランダ語と医学の勉強を目指しました。
15歳の時に長崎に赴き、それらの勉強になお一層励みますが、折しも、1823年にシーボルトが出島にやってくるとすぐに鳴滝塾へ弟子入りします。
ここでおもしろいことは、初代から第三代までの鳴滝塾頭の共通点として、いずれも20歳代半ばまでにオランダ語と医学の勉強を積み重ねていたことから、すぐに鳴滝塾に弟子入りし、リーダー性を発揮してシーボルトを大いに手助けできたことです。
これらの塾頭たちの年齢は、若きシーボルトとほぼ同じか、若干の年下であったことから、若者同士という積極性と行動力が、互いに相乗効果をもたらしたのではないでしょうか。
シーボルトにとっては、若い有能な弟子たちが集まってきたことを心強く感じ、弟子入りした当人たちは、優れた師に出会えて本物の西洋医学と自然学を学び研究することができたことを心から嬉しく思ったことでしょう。
互いに夢とロマンを抱いた若者が、実践的に医学と自然学を探究することには、その眼前に広がった日本という荒野を踏み越えていくことに少しの恐れもなかったはずです。
さて、ここで、これらの優秀な若者たちが、次々に現れて活躍するようになったのは、なぜでしょうか?
その源流は、徳川家康にあります。
折しも、真田広之主演のドラマ『SHOGUN 将軍』が第76回エミー賞史上最多の18部門を受賞しました。
この真田が演じたのが徳川家康であり、それを相談役として支援したのが、三浦按針でした。
じつは、この三浦按針は、英国人の航海士であったウィリアム・アダムスであり、かれが乗り組んでいたオランダ商船が大分県の臼杵市沖で座礁し、捕虜として長崎奉行に収監されていました。
この捕虜に興味を抱いた徳川家康は、アダムスを呼び寄せ、諸外国のことをあれこれと質問しました。
アダムスは、家康を少しも恐れることなく、歯に衣を着せずに答えたことから、家康は、かれを気に入り、和名と俸禄を与えて、家康の対外国戦略補佐官として重用したのでした。
家康は、信長や秀吉と同じく、明や朝鮮のことに関心を持っていましたので、按針のアドバイスは非常に重要で有益でした。
また、好戦的なスペインやポルトガルではなく、そのスペインから独立したオランダが交易相手として選ばれたことにも、かれの適切なアドバイスがあったからでしょう。
そのオランダは、ジャカルタに東インド会社を設立し、そこを拠点としてオランダ船が度々日本に就航するようになりました。
そして、日本からの銀を買い取り、それを欧州において高く販売することで高収益を上げることができました。
このオランダ交易が決定的に発展していく契機となったのが、将軍家光の時で、島原の乱において幕府がオランダの軍艦の支援を受けてキリシタン教徒を鎮圧したことでした。
さらに、将軍吉宗の時には、蘭学の修得を認め、幕閣の学者にも、その研究を奨励するようになりました。
これによって、下級の武士や庶民にまで蘭学を学習し、研究することが広く普及していきました。
いわば、この蘭学をはじめとする西洋医学や文化の解禁が、まじめで勉強好きな日本の若者の心に火を点けたのでした。
士農工商という身分制度のなかで、それを乗り越えることができる道がオランダ語を学び学問を積み重ねることだったのです。
美馬、岡、そして高良斎もその一人であり、かれらは鳴滝塾の塾頭として十分に活動できる資質と情熱を兼ね備えていました。
最大の功績
かれの最大の功績は、なんといっても、シーボルト事件(後に詳述)の発生によって捕縛された鳴滝塾の塾生23名の無実を、同じく塾生の二宮敬作と共に身体を賭して救ったことでした。
牢獄のなかで、木の枝を砕いて筆にし、炭を粉々にして墨にし、シーボルトとその弟子たち23名の無実を直訴したのでした。
かれは、その尋問の際に、こう叫んだそうです。
「私たちの師であるシーボルト先生は少しも間違ったことはしていない。もうしそういうことがあったとしたら、私たち二人の首をはねてつぐなう」
その翌日には、その23名の弟子たち全員が許され、放免されたのでした。
まさに、塾頭としてのすばらしい役割を果たしたといえるでしょう。
また、かれは、オランダ語による『生理問答』、『日本疾病志』などの論文を遺しています。
さらに、かれと二宮敬作には、シーボルトが日本を去る際に、自分の娘のおイネの面倒をみてくださるように依頼がなされました。
このように、高良斎は、文字通り、鳴滝塾における中核としてシーボルトからの信頼と依頼を受けた重要な役割を果たした俊英だったのでした。
次回の俊英としての人物は、上記の二宮敬作です。
かれは、他の弟子たちとは違って農家の出身でした。
貧しい家計でありながら、医学を学ぼうと宇和島から長崎までやってきた若者でした。
その若者がシーボルトの助手になって小さくない役割を果たし、歴史上重要な出来事を生み出す人物関係者になっていきます。
それらについては、次回においてより詳しく分け入ることにしましょう(つづく)。
コメント