アルルのヒマワリ(2)
若きゴッホが、最初に就職したのはグービル商会という美術商でしたが、ここでは上司の理解が得られず、すぐに退社しました。
以後、フランス語の教師、本屋、そして牧師などを目指そうとしましたが、いずれも上手くいきませんでした。
そこで、弟のテオがパリで画商をしていたことから、そこに、何の前触れもなく転がり込んでいきました。
おそらく、ゴッホ自身は、テオの支援を受けながら、子供のころから好きだった画家になることを目指してみようと思ったのではないでしょうか。
ゴッホが、パリのテオのアパートにやってきたのは1882年2月であり、それ以後約2年間の滞在でした。
この間、数々の新鋭画家たちとの交流によって画家としての刺激と感化を受けながら、その修行を積み重ねていくなかで成長を遂げていきました。
そして、この途中で衝撃的に出会ったのが、ジャポニズムでした。
なかでも、歌川広重や葛飾北斎などの浮世絵に衝撃を受け、その画法を学び、自分のなかに採り入れようとします。
これは、パリにやってきて、気鋭の画家たちがめざしていた最先端の画法に対して、何と自分は遅れていたかとショックを受けていたかれにとっては、ひとつの光明を与えてくれたものでした。
ゴッホの日本研究は、ますます進み、それを自分の画法のなかにいくつも取り入れようとしました。
その代表的な絵画のひとつが、『タンギー爺さん』でした。
かれは、パリコンミューン(革命自治体)に参加した人物であり、小さな画商を経営していて、なにかとゴッホに親切で、画材や資金の支援を行っていた、無欲の人のよい方でした。
ゴッホも、その親切と支援が嬉しかったのでしょう。
かれの人物像の背景は、かれがあこがれていたジャポニズムの絵画で埋め尽くされていました。
ゴッホは、かれを親身になって励まし、支援し、励ましてくださったタンギー爺さんのことを嬉しく、心から感謝していたのではないでしょうか。
かれにとってのタンギー爺さんは、弟のテオ以外には、ほとんど出会うことがなかったよき理解者であり、激励と支援をしてくださった唯一の方だったように思われます。
パリコンミューンとは、労働者が立ち上がって王政を転覆させ、革命政府を作り上げた自治体のことであり、そこに参加したタンギー爺さんは、生粋のプロレタリアートとしての信念と友情を兼ね備えていた資質を有していたからこそ、貧しくて不幸なゴッホに対しも、やさしく親切に支援を行うことができたのでしょう。
この親切と支援の心を身に染みて感じたゴッホは、自らが出会ったあこがれのジャポニズムが必然的に一体化して、このような絵画が生まれたのでしょう。
しかし、そのパリでは、それ以上に日本の姿を探すことができなかったことから、かれは、それを探し求めて、アルルへと旅立ったのでした。
そのアルルには、「これが日本だ」と思える田園の雪景色がありました。
そして春になり、太陽が燦燦と輝くようになり、ゴッホは、そこをますます日本だと思い込むようになります。
おそらく、ゴッホは、パリコンミューンのことをタンギー爺さんから幾度となく聞かされていたのではないでしょうか。
そこでは、労働者と市民が連帯して、王族や貴族たちを撃退し、自分たちが主権の政府を創造し、運営を行っていたのですから、それこそ、そこには、労働者や市民、そして農民や芸術家、画家たちも参加していました。
そのなかには、民主的な画家たちもいて、互いに協力してパリコンミューン下での芸術活動、画家活動をどうするかを話し合い、共同の行動を行っていたはずです。
画家同士が協力して絵画に取り組む、作品を共同で製作し、評価し合う、互いに絵画の制作にとって芸術性を高める、このようなことが熱心に語り合われたのではないでしょうか。
タンギー爺さんは、かれに、そのことを幾度となく熱心に語っていたことが、かれの画家共同体構想を刺激したように思われます。
また、ゴッホが手に入れていた数々の浮世絵には、筆使いや色使いで、そして画体の把握方法において、よく似たものがあったことから、かれは、そこに画家同士の協力や共同があったのではないかと感じ取ったのではないでしょうか。
こうして、アルルこそが日本だとより強く思うようになり、ゴッホは、友人たちに対して、アルルでの共同作業を呼びかけるようになりました。
3枚目のひまわり
そしてかれが、親しき友人たちを迎えるために描いたのが「ひまわり」でした。
アルルでは、合計で7枚目の「ひまわり」の絵を描いています。
これらを眺めてみると、その第一作および第二作に対して、第三作とは大きな違いがあります。
おそらく、かれは、このヒマワリの連作の過程において、重要な何かを得て、画家としての飛躍的な成長を遂げることに成功し始めたのではないでしょうか。
その第三作は、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにあります。
正規の閲覧コースを辿っていくと、それはほとんど最後のところに展示されています。
その前には、かなり多くの方々が座って鑑賞できる椅子も置かれていました。
また、オランダ時代の暗い画風の農民の絵や緑の農村風景を描いた絵画(「オーヴェル近郊の平原」)とともに、この第三作が展示されていました。
この「ひまわり」を観たときの第一印象は、何ともいえない絵の力に圧倒されてしまったことでした。
絵のサイズは、92㎝×73㎝でしたが、今でも残っている私の印象では、この絵画が、そのサイズよりも約1.5倍ではないかという記憶として残っています。
12本のひまわりが、さまざまな形態で描かれていますが、それらは、オレンジ色がかった深い黄色で描かれており、その様は一つとして同じものはありませんでした。
次に驚いたのは、すこしも影が描かれていないことでした。
おそらく、これは浮世絵の画法を採用したからではないでしょうか。
これによって、個々のひまわりが、いずれも主役となり、ここには脇役としてのひまわりは描かれていません。
12本のひまわりは、ゴッホの黄色い家に集まった画家たちであることから、その皆が主役であるとも考えられていたように思われます。
第3は、この「ひまわり」をいくら眺めつづけても、少しも飽きることがなかったことです。
これは、私の子どもたちも同じだったようで、4人とも、その前の椅子に座ったままで、そこから動こうとはしませんでした。
この黄色は、日本と同じと思われたアルルの光の象徴の色であり、その花は、画家たちが集まって究めようとした高次元の芸術性の想いが込められたものであり、そのことを無心に、そして真摯に、さらには熱望して必死で描いたことが、この絵画に具現化され、かれの画家としての成長を促したのでしょう。
この崇高な芸術家としての第一歩に到達したかれの充実と喜びが、ひまわりによって表現されていたことが、おそらく私たちを釘付けにしたように思われます。
この境地に辿り着いたゴッホは、ほぼ同じようなひまわりの絵を、その本数を増やしながら描き続けます。
こうして、かれの画風が定まり、偉大な画家としての道を歩み始めたのでした。
しかし、ゴッホ自身には、その自覚は少しもなく、画商のテオも同じ認識のままでした。
パリにいた画商のテオのアパートに転がり込んできて以来、このひまわりを描くまでに至るには、わずか2年しか経過しておらず、それだけの短期間で到達できたゴッホの絵画力には、人並外れた情熱が寄与していたように思われます。
学問は情熱がないと遂行できない、この基本は、芸術においてもあてはまりますね(つづく)。
3番目に描かれた「ひまわり」(ウィキペディアより引用)
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