俊英(1)美馬順三(2)
 
 シーボルトと鳴滝塾初代塾頭の美馬順三の関係は、互いに家庭環境や生い立ちを話し合うほどに親しかったようです。

 美馬は、シーボルトが長崎にやってくる前に長崎に行き、通詞の家に泊まってオランダ語、天文学、医学を懸命に学んでいたことから、シーボルトが長崎に到着するとすぐに弟子入りしたのでした。

 シーボルトにとっては、美馬のように同世代で、ひたむきにオランダ語や医学を学んでいた優秀な若者を最初の弟子として迎えることができたことは非常に幸運なことでした。

 これによって、かれは、日本にきて、すぐに自分の夢の実現させるために真に頼もしい見方を得たのでした。

 名著『評伝・高野長英』を記した鶴見俊輔は、この美馬が、シーボルトの母親に次の手紙とささやかな贈り物をしたことを明らかにしています。

 「それからまたはなはだ粗末なものでありますが、この手紙と一所に二つの麦わら製の小箱をさしあげたいと存じます。
 ご笑納くださいますれば、私にとってたいへん光栄でございます。
 終わりに私はあなたさまが御令息フォン・シーボルト先生がこの地において始終御健康であられ、大いなる成功をもって帰還される日を待たれるようにと祈ります」

 この手紙には、シーボルトが、日本で学問研究に多忙で、多くの難病人を治療してよい結果を得ていることが語られていました。

岡研介(おかけんかい)

 初代塾頭として優れた活動を開始していた美馬順三は、1825年7月にコレラに感染して急死してしまいました。

 シーボルトとは、わずかに2年の付き合いであり、塾頭として活躍し始めたばかりの時でした。

 この美馬の急死によって、二代目の塾頭には岡研介が就任しました。

 かれは、山口県平生町の出身であり、幼いころから学問の道を歩み続け、幅広い分野の学問の研鑽を重ね、そのなかでは教育者として有名であった広瀬淡窓をはじめ多くの師のもとで学びながら、とくに医学の道を究めようとしました。

 岡は、たくさんの広瀬淡窓の弟子のなかで、3優秀人の一人だといわれていました。

 そんな矢先、シーボルトの来日を知り、かれは、すぐに1824年2月に24歳の時に弟子入りし、シーボルトから初代塾頭の美馬と共に鳴滝塾のリーダーの一人として運営に参加するように指示されたのでした。

 美馬にとっては、頼もしい相棒的存在であったのではないでしょうか。

 また岡は、会話と文章づくりに優れた才能を発揮されたようで、シーボルトへの面会を希望した要人や弟子たちとの相談において常に立ち合うという重要な役職を熟していました。

 論文の文章力においても鳴滝塾の錚々たる弟子たちのなかで、かれよりも2カ月遅く弟子入りしてきた高野長英とよく比較され、読解力の長英、文章力の研介といわれるほどでした。

 かれの鳴滝塾での活動は6年間であり、兄の泰安とともに、シーボルトから実践的に医学を学びました。

 とくに、兄の泰安は、眼科医として優れた医療活動を行い、後に岩国藩の藩医にまで就任しました。

 しかし、弟の研介は鳴滝塾2代目の塾頭として優れた才能を発揮し、シーボルトからの強い信頼を得ましたが、不幸にもシーボルト事件が発生し、それを上手く切り抜けたものの、最後には精神的に病んでしまい、医者としての成功には至りませんでした。

 ここで、シーボルトにとって重要で幸運だったことは、美馬、岡という鳴滝塾の塾頭にふさわしいリーダー格の俊英としての弟子を迎えることができたことでした。

 かれらは、シーボルトに近い年齢であり、しかも、シーボルトの鳴滝塾にやってくるまでに、医学はもちろんのこと、学問に裏打ちされた幅広い視野を有し、それこそ身体を張ってシーボルトに師事し、その献身を示したのです。

 27歳で日本に赴任した若きシーボルトが示した実践的な医学研究と自然学研究を、その弟子であった美馬と岡とともに、すぐに実践できたのは、この優れた弟子の支援があったからではないでしょうか。

 シーボルトを回転軸とした弟子たちの奮闘は、水を得た魚のようであり、それらは、シーボルトとともに明らかにされた文献に示されています。

 この3者の協力と奮闘によって、鳴滝塾の評判は、全国に普及していきました。

 その噂を耳にしたのが、若き高野長英や二宮敬作であり、かれらをはじめとして多くの若者たちが鳴滝塾へと集まってきたのでした(つづく)。

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浦添美術館(沖縄)のシンボリックな塔