アルルのヒマワリ(1)

 オランダの若い画家がパリにやってきて驚いたのは、ジャポニズムといわれた魅力的な日本の光景と人物の画法でした。

 その若者の名前は、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホでした。

 かれは、1853年3月30日にオランダ南部のズンデルトにおいて牧師の家に生まれました。

 幼いから癇癪持ちで、両親や周囲の人々にとってはなかなか扱いにくい子どもだったようです。

 16歳でオランダの画商のグービル商会に就職しますが、ここで無断で休んだことを理由に解雇されてしまいました。

 その後イギリスの神学の寄宿舎において無給の教師になりましたが、これも長続きせず、家に帰ってからは聖職者や伝道師になりたいという希望を持って勉強をしていましたが、これも達成できませんでした。

 これらの経験を通じて、かれは、貧しい人々や農民の姿を知ることになり、かれらの様子を描くようになりました。

 結局、弟のテオからの支援を受けて絵画を描くようになり、25歳で画家としての道を歩むようになりました。

 その後、画家として成長するために、かれはパリに赴き、そこでさまざまな第一線の画家たちと出会うとともに、当時大流行していたジャポニズムに示された日本文化の高さに驚きます。

 ここから、ゴッホの画家としての修行が始まります。

 ミュンヘンのノイエ・ピナコテークには、かの有名なヒマワリの絵画の傍に、オランダ時代に描いた農民たちの絵画が展示されています。

 この絵画のように、暗い空間のなかで農民の実像を探ろうとしていた画風から、いかに光を取り入れて人物を描いていくのかが、非常に重要な指向になっていきました。

 そのために、かれは、その修行のために自画像を描き続け、合計で37枚もの自画像の描写を重ねていきます。

 修行のためですので、他人に見せるものではなく、パリの優れた画家たちの描写方法を取り入れようと必死で研究したのでした。

 同時に、日本の浮世絵の巧みさに感動し、日本へのあこがれを強く抱くようになっていきました。

 この日本へのあこがれは、ゴッホのなかでどんどん強くなっていき、そして、その日本の地をフランスに求めて、アルルへの移住を決めます。

 そして、かれ自身が描いた黄色い家を見つけ、ここに同じ画家たちを集めて共同生活を行うことを呼びかけるようになりました。

 その画家たちを迎えるために、ゴッホは12枚のヒマワリの絵を描く計画を立てます。

 ここで、ゴッホは、なぜ12枚ものヒマワリの絵を描こうとしたのでしょうか?

 これが非常に重要な問題であり、画家としての飛躍的成長を促す決意と実践だったのです。

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三連画のアイデアを伝えるスケッチ(弟テオへの手紙、世界のタグ名画HPより引用)

 ゴッホは、弟で画商のテオへのお金の無心のこともあって頻繁に手紙を書いていました。

 そのなかに、ヒマワリのことについても、このように三作連画の構想もあったようで、そのスケッチが示されています。

 じつは、ゴッホの作品は、生前1作しか売れず、そのすべては弟テオが保管していました。

 そしてテオもゴッホの作品を広く販売することもないままに逝ってしまいました。

 しかし、その妻のヨーが遺作として残っていた膨大な手紙に注目し、それを出版したことが転機となり、しだいにゴッホの絵画が評価されるようになったのでした。

3枚目のヒマワリ

 かれの構想は、合計で7枚のヒマワリの絵画によって達成されます。

 周知のように、ヒマワリは太陽に向かって咲く花です。

 このヒマワリについて、ゴッホは、次の2つを感じていたのだと思います。

 その第1は、芸術家としての最高の極み、すなわちヒマワリの連作によって、芸術性に富む集団を形成しようとしていたのではないでしょうか。

 それが、多くの画家たちを黄色の館に呼び寄せて、一緒に芸術を究めようと思う行動に結びついていったのだと思われます。

 第2は、日本への憧れがヒマワリに具象化されていたのではないでしょうか。

 光あふれるアルルにやってきて、その何もかもが日本のようだと思い込むようになっていたゴッホは、その太陽光に向かって咲くヒマワリを日本の象徴だと理解しようとしたのではないかと思われます。

 すなわち、ヒマワリへの愛着は、最高の芸術性を求めることと、日本への憧れをより強める行為の証だったのではないでしょうか。

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ヒマワリ(ゴッホ、ウィキペディアより引用)

 これは、ゴッホが描いた3枚目の「ひまわり」であり、実際のヒマワリを見ながら描いた2枚目の絵画だといわれています。

 この絵画の実物は、ミュンヘンのノイエ・ピナコテーク美術館に展示されています。

 次回は、この実物を鑑賞した時の感動に分け入ることにしましょう(つづく)。