おタキと其扇(そのぎ)(3)
 
 長崎の銅座を営んでした楠本左平は、その営業不振によって家計を維持できなくなり、その長女のツネを長崎出島の遊女に出していました。

 しかし、それでも家計の不振は続き、四女のタキまでも遊郭で働かせることにしていました(タキは15歳であり、四女ではなく次女という説もある)。

 その遊郭を経営していたのが引田屋だそうで、当時の出島の遊女たちは、日本人用、唐人用、阿蘭陀人用の3つに区別して配属されていて、ツネもタキも、その阿蘭陀人を相手にした遊女とされていました。

 また、この時代の遊女には、雅さを備えるという趣旨から源氏名が付けられていて、タキの源氏名が「其扇(そのぎ)」だったのです。

 『評伝シーボルト』を執筆したヴォルフガング・ゲンショレクは、この2つの名前を混同していたようで、この評伝を最初に読んでしまった私も、これらを同じように混同してしまいました。

 また、当事者のシーボルトも、自分の妻のことを「其扇」と呼んでいたようで、もしかしたら、「タキ」という名前を正確に理解していなかったのかもしれません。

 シーボルトが、こよなく愛した日本産の紫陽花を「オタクサ」と呼んだことも、その理解に関係していたのかもしれませんね。

 かれは、長崎の出島にやってきたときには27歳の若ものでしたので、遊女の其扇をすぐに見染めたそうで、その翌年には彼女と結婚しました。

 しかし、シーボルトは正式に日本人女性と結婚することはできなかったので、仮名の遊女として出島に入ることができるようにしてともに生活したと上記の仮ゲンショレクは述べています。

 また、別の研究者は、其扇を見染めたシーボルトは、ある外国人と彼女を奪い合う賭けをしたそうで、それに勝って幸運だった喜んでいたそうです。

 その後、二人の間にイネという娘が生まれます。

 
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シーボルトとタキ(イネを抱きかかえている、ウィキペディアより引用)
 
 この絵画は、長崎湾に入港している船を望遠鏡で観察しているシーボルト夫妻の様子が描かれています。

 白い服を着て緑の帽子を被っているのがシーボルトであり、その後ろに其扇がいて、赤ん坊のイネを抱きかかえています。

 タキは、遊女らしく優雅な着物を着て、髪も美しく結われています。

 また、シーボルトの緑の帽子は、かれのトレードマークだったそうで、日本人は、この緑の帽子を見つけることで、それがシーボルトであることを認識したそうです。

 当時の侍たちには、このような帽子を被り、靴を履くという習慣もありませんでした。

 周知のように、シーボルトが育ったドイツのヴュルツブルグの冬は寒く、帽子は必需品であり、衣服においても、帽子は軍人制服の一部でした。

 シーボルトは、出島において医師としての高度な治療を行うことによって、長崎奉行、通訳、そして地域の人々からの信頼を得ることができました。

 そして、その次に行ったことが、その出島における拠点を作ることであり、その軸となったのがタキとの結婚であり、これによって真の理解者と支援者を得ることができたのでした。

 タキも自分を心から愛してくれる伴侶を得て、心底、喜ばれたことでしょう。

 シーボルトは、このタキを妻として迎えた時の心情を、叔父のシーボルト教授(ヴュルツブルグ大学)の手紙に吐露されています。

 こうして家庭を築いたシーボルトは、いよいよ出島の近くの鳴滝において、次の拠点づくりをめざすことになりました。

 次回は、そこに分け入ることにしましょう(つづく)。