奇跡の医師(2)
 
 シーボルトが、奇跡としての医師といわれるようになったもう一つの重要な出来事は、天然痘における種痘を指導したことにありました。

 すでに、ヨーロッパにおいて発生、流行していた天然痘は、正規の病気として認知されず、幼児期における流行り病だと考えられていた時期もありました。

 しかし、天然痘にかかった人々が二度と同じ病になることはなかったことから、その免疫として種痘を行うという試みも、かなり古くからなされていたことでした。

 ある時、ジェンナーは、天然痘になった牛の世話をしていた娘が、天然痘を発症していないことを見つけ、その牛の患部から採取した種を、再度、その娘に植え付け、天然痘を発症しないことを核にしてから、それを10歳の少女に種痘し、そこでも無発症であったことを確認しました。

 そして、この結果を踏まえて、大勢の種痘を行い、すべて天然痘を発症しないことを見出し、その予防策が確立されたのでした。

 シーボルトは、この医学的事実と手法を幕府の役人や弟子の医者たちに教え、その実践を行いました。

 しかし、その種痘の免疫種がインドネシアから送付されてきたのですが、その品質が悪化していて、すぐには種痘に成功しませんでした。

 それでも、シーボルトの弟子の一人である伊藤玄朴らに、その教えが伝えられ、幕府の支援も受けて、日本でも、天然痘の種痘に成功するに至ったのでした。

 この種痘におけるシーボルトの功績は小さくなく、これも「奇跡の医師」と呼ばれる理由の一つとなったのでした。

タキと其扇(そのぎ)

 シーボルトは、27歳という若さで日本に赴任し、翌年の28歳の時に、長崎の女性「タキ」と結婚しました(30歳で結婚したという説もある)。

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おタキさん(ウィキペディアより引用)

 さて、このタキとシーボルトの「なれそめ」については諸説があるようです。

 ウォルフガング・ゲンショレク著『評伝シーボルト』によれば、シーボルトは楠本家に往診に行った際に、16歳の其扇(そのぎ、タキの本名)に会い、たちまち見染めたと記されています。

 当時、シーボルトは、出島以外のところで女性と交際することは認められていませんでした。

 出島において出入りが許されていたのは遊女だけでしたので、その其扇は、遊女の名として「タキ」を語ってシーボルトと出会っていたと解説されています。

 しかし、この「おタキ」さんの境遇をいろいろと調べてみると、そうではない事実もあったようで、そのなれそめについては、別の説もありました。 

 次回は、そのことに分け入りながら、シーボルトがこよなく愛した「おタキさん」についてより詳しく調べてみることにしましょう(つづく)。