おタキと其扇(そのぎ)(2)
 
 シーボルトの妻となった女性の本名は何だったのか?

 シーボルトのことをいろいろと調べているうちに、この疑問が生じてきました。

 最初に読んだヴォルフガングの評伝では、  シーボルトは、楠本家で16歳の其扇に会い、17歳で結婚したと記されていました。

 また、板沢武雄著の『シーボルト』においても、「其扇」と呼称されていました。

 しかし、大場秀章著の『花の男シーボルト』においては、「其扇(楠本滝)」と称されていました。

 ここで、二つの名前が出てきました。

 これを、どのように考えたらよいのであろうか?

 こう考えながら、さらに調べていくと、赴任したシーボルトの家は、長崎の出島のなかにあり、その出島への出入りが可能だったのは、遊女のみであったことがわかりました。

 そうであれば、其扇は、どうしたのであろうか?

 彼女は、シーボルトに会うために、名前を変えて出島のシーボルト宅を訪ねたのではないか、その際の名前が「タキ」であった、このように説明する指摘もありました。

 そうであれば、本名が「其扇」、遊女名が「タキ」となります。

 本当に、そうであろうか?

 そこで、さらに、この2つの呼び名についてより詳しく調べてみました。

 ここで決定的な文書が明らかになりました。

 それは、シーボルト自身が、日本を去ってから、妻宛に書いた次の手紙がありました。

 かれの日本滞在は6年間でしたが、その間に、手紙を書くまでの日本語を習得していたのでした。

  「愛する優しい其扇(タキのこと)と『おいね』へ

……私は愛する其扇と優しい「おいね」が平穏で幸せに暮らすことを望んでいます。

 私のことを忘れないでください。毎( 2のことを思うと)親らしいを持って今でも涙がこぼれるのです。
 本当に可愛い『おいね』のようなこどもはジャワ全体でつかりませんが、(『おいね』のことを思い出し)ひどくが痛むのです。
 お前と『おいね』のことは、万事良きよう 世話をいたします。

 ……どうして私は愛するお前や『おいね』のことを、時も忘れることができようか。

 私が膳の事をするときは、お前に半膳を供えます。々、お前の誠実な柄を思いながら、毎、お前と『おいね』の名を呼んでいます。
 お前とこどもが元気に暮らし、(たちや)たちの皆さんへよろしくお伝えください。さようなら。
……
ソノギヲシトル(タキを愛している)」

 1830年3月4日、シーボルトから妻タキへの手紙(抜粋)、長崎市公式観光サイトより引用

 この手紙によれば、シーボルトは確かに、自分の妻のことを「其扇(そのぎ)」と呼んでいます。

 かれは、この名前を非常に気に入っていたのでしょうか。

 この名前は、源氏に由来する名前のようで、遊女を世話をした商人が、この名前を彼女に、すなわちタキに与えたようです。

 これが、本当のことであれば、シーボルトは遊女の其扇に出会うことで見染めたことになります。

 そして、其扇の本名は「タキ(滝)」であったということになります。

 下図は、シーボルトが日本を離れる際にタキが贈ったカギ煙草入れのなかのタキノ肖像画です。

 見目麗しい美貌が窺えます。

 シーボルトは、再来日した際に、妻のタキと娘のイネに再会して、この肖像画をタキに返したそうです。

 次回は、この2つの呼び名に関して、さらに分け入って考えることにしましょう(つづく)。

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おタキがシーボルトの離日の際に託した肖像画(長崎市公式観光サイトより引用)