奇跡の医師(1)
 
 シーボルトのセレンディピティー(幸運さ)は、オランダ政府がかれに要請したことと、かれ自身が希望していたことが、ほとんど一致していたことでした。

 徳川家康の時代から、オランダは江戸幕府との貿易交流を持続させていたことから、その発展をめざしていましたが、シーボルトが来日した当時は、その貿易交流が低調になっていたことから、その挽回が必要でした。。

 一方の江戸幕府による貿易の実利もかなりのものだったことから、双方にとってオランダとの交易は重要であり、その拠点が長崎の出島でした。

 この出島におけるシーボルトの最初の仕事は、幕府と地域の住民の信頼を獲得することでした。

 シーボルトの仕事は、その出島において、次の総合的科学的研究(「万有学的研究」とも呼ばれていた)を行うことでした。

 1)宗教
 2)風俗習慣
 3)法律及び政治
 4)農業
 5)所得及び税
 6)地理及び地図
 7)芸術及び学問
 8)言語
 9)自然研究
  10)薬草学
  11)珍現象
  12)職員関係
  13)会計

 真に多岐にわたっており、これらが明らかになっていくことは、オランダ政府にとって非常に重要であり、喉から手が出るほどに欲する情報でした。

 また、シーボルトは、これらの総合的な科学的研究を長崎奉行に伝えて、その理解を得ていたのでした。

 長崎奉行の高橋重賢(しげかた)は、この研究の意義と意味をよく理解し、その成果が江戸幕府にとっても非常に重要なことであることを認識していたことから、シーボルトへの支援を積極的に行いました。

 とくに、シーボルトが赴任直後にオランダ商館員たちがかかっていたコレラをみごとに治療したことから、それが出島で、さらには長崎奉行にまで伝わり、出島の外での地域の商人たちの治療を行うことが許可されたのでした。

 シーボルトの作戦は、まず出島から出て地域のコロナ感染者の治療を行うことによって、長崎奉行や地域の商人たちの信頼を得ることでした。

 当時のオランダ政府は、この若きシーボルトへの期待が大きく、必要な器具や資金を十分に提供していたことから、鳴滝の土地代、そして、そこに後の鳴滝塾となる家屋を設けることも可能にしたのでした。

 シーボルトは、出島の住居から歩いて、この鳴滝塾までよく通っていたそうで、その道は、今日のおいて「シーボルト通り」と呼ばれています。

 シーボルトの祖国、ドイツにおいては、街路に人名が付されることが多く、この出島から鳴滝までの通りを、自分で「シーボルト通り」と呼んでいたのかもしれませんね。

 地域に出向いてのシーボルトの往診は、さまざまなエピソードを生み出すことになりました。

 なかでも、それを「奇跡の医師」といわしめた治療成果がありました。

 それは、長い間、何も見えない状態であった患者に人工のレンズを入れて、目を見えるようにしたことでした。

 この可視化によって、人々はシーボルトのことを「奇跡の医師」と呼ぶようになりました。

 このかれの信認と評判は、通訳士から長崎奉行へ、出島から鳴滝へ、そして長崎藩へと広がり、それが全国へと波及していったのでした。

 シーボルトは、いつも緑色の帽子をかぶっていたそうで、それが奇跡の医師の目印となっていました。

 次回は、シーボルトの妻「おたきさん」について分け入ることにしましょう(つづく)。

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シラン(前庭)