昨日のガイダンスの続きです。

須らく雫の石を穿つ如くⅡ(5555回記念)

 シーボルトが日本に赴任して、最初に行ったことは、当時流行っていたコレラに関する治療を行ったことでした。

 インドの風土病であったコレラがアジア地区で拡散し、日本においても長崎の出島にコレラが侵入してきていました。

 その際、オランダ商会の会員たちのコレラ治療を行い、一緒に赴任した商館長の信認を一挙に得ることができました。

 そして日本人のコレラ治療にも医者として貢献し、地域の人々からも信頼される医師としての評判を得たのでした。

 その後も、視力を失っていた患者の視力を戻し、さらには天然痘の種痘についても重要な貢献をなすようになり、地域から愛される医師として名声を得たのでした。

 その結果、出島の外に出て治療を行うことが許され、鳴滝という地名の場所に土地を得て、家屋を立てることも長崎奉行から許可され、それが後の鳴滝塾になっていきました。

 さらに、地元の人々の往診にも出かけるようになり、楠本家に出向いた折に、16歳の娘であった其扇(そのぎ)に出会い、親しくなります。

 その彼女が、後の「お滝さん」であり、シーボルトの妻となる方でした。

 このように、若干27歳の若者は、日本に来てからも地域や幕府に信頼を得る活動を積極的に行ったことから、しだいに評判が評判を呼ぶ事態へと発展していきました。

 こうして、この評判を耳にした若者が、全国から続々と集まってきて、シーボルトの適格な指導の下で、素晴らしい成長を遂げ、その後の日本を背負う人々になっていきました。

 このシーボルトの教育指導は、自らの日本研究とも密接に関係し、その教育と研究を共に発展させていったことに素晴らしさがあります。

 本シリーズにおいては、その若きシーボルトの活動に分け入り、その発展の理由を究明していく予定です。

「OIだより(4800回記念)」
 
 しばらくの間中断していましたので、これを復活させました。

 というのも、その活動を約2週間前から開始し、それが軌道に乗り始めたからでした。

 この再開のきっかけは、すでに述べてきたように、若手の社長さんらとかなり突っ込んだ議論を行うことができたことにありました。

 その時に、大方の探究課題が明確になったことから、その系統的な実験を開始することになりました。

 また、この実験においては、まじめな若手の支援を受けることが決まりました。

 実験というものは、一人で行うこともできますが、私の場合は非常に効率がよくなく、また、自分だけの判断で実験を遂行していくと、単一的判断に陥ってしまいがちになりますので、あまり好ましいものではありません。

 若手とはいえ、かれと協議をしていくと、そこから具体的な実験計画が明確になって、的確な本質に迫っていくことがより可能になるようです。

 その最初の課題は、光マイクロバブルフォームに関することであり、この科学的本質を探究していくことになりますが、早くも、その手掛かりを少し見い出せたようです。

 本シリーズにおいては、差支えない範囲で、それらの成果を明らかにできるとよいですね。

「ナノプラネットゼミ」

 月1回のナノプラネットゼミが定着してきました。

 しかも、その報告をやや詳しく行うようにしてきました。

 もともと、このようなゼミ活動を行うきっかけは、吉田松陰が、自宅に監禁されていた際に、家族に対して講義を行ったことを教訓にして、身内中心であってもよいから、互いに学び合おうという主旨で始めたものでした。

 実際、これを行ってみると、それぞれの話題提供者の自覚が高まり、その発表内容にも興味深いものが少なくありませんでした。

 そのナノプラネットゼミが、次回で第49回、そして次々回は、記念の第50回を迎えることになりました。

 これを記念して、いつもゼミ終了後の食事会の内容を少し豪華にしてもよいですね。

 このゼミ活動は、互いの精神活動の向上にも有益であり、そのためにも継続していく必要がありますね(この稿おわり)。

saru
百日紅(前庭)