報告(6)
 
 第48回の「ナノプラネットゼミ」が下記のように開催されましたので、6回目の報告をいたします。
 
 長英・シーボルト(3)

 前記事の続きです。 

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  シーボルトは、27歳の時に日本を訪れ、充実した約7年間を過ごしました。

 この活動の特徴は、次の3つにありました。

 1)当時のオランダ政府は、軍事力においてスペインやイギリスに対抗できなかったことから、オランダ東インド会社を拠点にしての貿易立国をめざしていました。

 この日本との通商政策は徳川家康の時代から開始され、双方における貿易利益はかなりのものに達していました。

 これをより一層発展させるために、シーボルトが派遣されたのでした。

 2)オランダ政府によってシーボルトに与えられた任務は、医学を通して幕府と日本国民の信頼を得ること、そして日本における自然学及び社会学の研究を行い、その多くの情報を収集することでした。

 そのために、シーボルトが最初に対応したのが、コレラと天然痘対策であり、これにみごとに成功したのでした。

 3)鳴滝塾を開講し、全国から集まってきた弟子たちを実践的に教育し、かれらを成長させて幅広い共同研究を遂行しました。

 この真摯な学問を究めていこうとする若きドイツ人の気質が、真面目で、新しいものが好き、勉強好きの日本の若者たちとよく共鳴し合い、その共同が幾重にも広がり、発展していきました。

 日本全国から若者が身分の隔てなく集まり、そこで学問的研鑽を重ね、立派な医者や学者として全国に帰っていったことが、その後の日本の歴史の土台を大きく動かすようになったのです。

 上記のスライドに示されているように、シーボルトには、いくつものセレンディピティーとの素晴らしい出会いがありました。

 それらをひつひとつ辿っていくと、セレンディピティーの連鎖反応が起きていたことが明らかです。

 その様は、「わらしべ長者」の逸話によく似ていて、それは「セレンディピティーの旅」と表現してもよいでしょう。

 その旅は、シーボルトが3歳の時に父親が逝くという不幸から始まりました。

 かれは、母方の叔父に引き取られ、大切に育てられました。年頃になって受験勉強する頃になると、大学の学長代理のデリンガーの指導を受けて、医学と自然科学の基礎を徹底して学びます。

 この幅広い素養と医学の勉強によって大学卒業後に開業医をしていたら、叔父の推薦でオランダ政府に軍医として雇用されました。

 折からオランダ東インド会社に出向し、さらに日本の長崎出島に赴任するようになります。

 ここで、医学と共に日本の自然研究を行うこと心から喜び、その拠点として鳴滝塾を開きました。

 そこで全国から集まった弟子たちを教育し、かれらと一緒に実践的な医学や自然学の共同研究を行いました。

 この活動が評判となり、将軍との謁見が可能になり、その行き帰りにおいても、日本研究を広く、深く遂行したのでした。

 そして、鳴滝では、16歳の日本人女性と知り合い、結婚して娘イネを授かりました。

 しかし、不幸にも、日本地図を持ち出そうとしたという「たれこみ」によってシーボルト事件が勃発し、国外追放になりました。

 帰国後は、弟子たちと共同で行った日本研究の成果を出版し、ヨーロッパにおける日本ブームを巻き起こさせました。

 そして、再び日本を訪れ、家族や弟子たちと再会を祝います。

 かれの日本研究の成果と弟子たちとの共同の成果が、その後の日本の歴史を大きく推し進めるエネルギーと指針を与えたのでした。

 そこに貫かれていたいたのは、まさしく「知の力」でした(詳しくは、別稿に記す予定ですので、ここでは、本稿をおわりにします)。

 また、講演予定の光マイクロバブルについては、時間が無くなってしまっていたので、次回に行うことにしました。

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           晩年のシーボルト(ウィキペディアより引用)