5600回記念(2)

 この記念シリーズにおける初稿は、今年の7月7日でした。

 以来半年近くが経過しました。

 せっかくの記念シリーズとして、この重要なテーマを想起したものの、これをどう考究し、いかに上手く叙述するのかを検討しているうちに、かなりの長い時間が過ぎていきました。

 こんなことは、本ブログを始めて以来、一度も経験したことがなかったことから、そのことが気になっていました。

 掲げたテーマが重すぎたかたなのか、それとも本質的すぎたからだったのか、それゆえに、小さくない躊躇(ちゅうちょ)や逡巡が生まれてしまったからなのでしょうか。

ーーー このままでは、冒頭の書き出しだけで終わってしまうのか?

 そうではいけないのではないか?

 どこかにその手掛かりと入り口があるのではないか?

 このような思いが浮かんでは消え、消えては浮かぶということを延々と繰り返していました。

快人エジソン

 しかし、この憂鬱(ゆううつ)な心境を吹き飛ばしてくれたのが、次の単行本でした。

 浜田和幸著『快人エジソン 奇才は21世紀に甦る』 日本経済新聞社

 これまでに、さまざまな書籍や電子媒体によってエジソンのことを読み聞きしてきましたが、この書籍には、それまでにないエピソードが示されていました。

 それゆえに、これまでのエジソンの人物像がすっかり変わってしまったといってもよいほどにおもしろいことが指摘されていました。

 そして、これを読み進めているうちに、懸案だった本シリーズのテーマに基づく執筆が可能になったのではないかという思いに至り、頭のなかが一気に明るくなりました。

 発明王エジソンといえば、2週間に1回の割合で特許を出願してきたように、創造の塊のような人物であったことから、そこに創造の正体の本質があったのではないか?

 この単行本の内容が、そのことを教えているのではないかという認識に至ったのでした。

 そこで、この著作のなかで紹介されているゆかいな具体的事例に基づいて、その創造の正体を探索して見ることにしました。

 周知のように、幼いころからエジソンは学校には行かず、母親に教育されていました。

 そのうち、かれは学校には行かず、自主的に学び、実践するようになりましたので、大学とは無縁の状態にありました。

 そのため、かれの部下たちも同じように学歴はないが有能な人を集めていましたが、それでも、大卒の解析能力が高い社員も必要だと途中から考えを変えて雇うようになりました。

常識から抜け出す非常識

 あるとき、その大卒の有能な研究員が開発ができない、よいアイデアが浮かばないと悩んでいるのを見て、エジソンは、かれに、こう語りかけました。

 「あなたは、これまでにあなたが築いてきた常識に基づいて、その問題を解決しようとしていませんか?

 そうであれば、あなたは解決方法を見出すことはできませんよ。

 そこから抜け出すことが、まず大切ですよ!」

 こういわれても、その研究員は、エジソンが語った意味をよく理解できずにいました。

 そして、その後も、よい解決策が見出せないと悩み続けていました。

 それから、しばらくして、エジソンは、その常識から抜け出すこと、そしてその非常識の考究の大切さを語り、さらに、一緒に集中して考えることを教えたのでした。

 エジソンの集中とは、食事を取らず、家にも帰らず、そして眠らず、ただひたすら、その難問の解決策を探るというゾーンに入ることでした。

 これによって、その研究員は、それまでの常識に縛られずに、非常に難しいと思われることでも考究し、その探究を徹底していくという、エジソン独特の発想方法と解決方法の教育を受けたのでした。

拙者の体験

 拙者においても、これと似た経験がありました。

 あるアイデアを示して、その実験を助手の方に依頼したことがありました。

 かれは、その実験を何度試みても上手くできなかったようで、それをどうしたらよいのかをより上司の助教授の方に相談しました。

 しかし、それでも上手くいかずに、その実験は無理だと二人して私の処に報告に来ました。

 「そんなことは、ないでしょう。必ず、上手くいくはずですよ」

といいながら、その実験を私自身が行うことになりました。

 まずは、その現象をじっくりと観察し、実験機器から発せられた信号を注意深く読み取りました。

 この読み取りにおいて、そして現象の観察において、それらが一瞬の出来事でしたので、それらの同調を瞬時に観察することができなかったことを、かれらは「実験が上手くできない」ことだと判断していたのです。

 すなわち、かれらの常識では、そんなことはできるはずがない、あるいは、そんな複雑なことを同時に計測することはできない、さらには、そんな神業みたいなことは無理ではないかなどと思われていたのではないでしょうか。

 それに対して、拙者は、このように思っていました。

 「これまでに誰もやったことがない実験だけど、上手くやればできることではないか。

 現象が複雑ではあるが、その現象のパターンとそこから取り出した信号のパターンには必ず同調性があるのではないか。

 いや、きっとあるはずだ!」

 このような気持ちになって、その現象と信号を観続けてみると、拙者には、それが徐々に観えるようになりました。

 「これらは、みごとにシンクロナイズしていますよ。

 じっくり、それらをよく観てください。

 それまでのあなた方の常識を放棄して、『観える』という非常識の意識に切り替えてみてください。

 きっと、あなた方にも、よく観えるようになると思いますよ!」

 これは、非常識の視点に依拠することによって解明できたことであり、この結果は、素晴らしい成果として、その二人のうちのドクター論文のなかにきちんと入って、光彩を放つことになっていったのでした。

 また光マイクロバブルに関しては、このような事例は山ほどありました。

 光マイクロバブル自身が非常識の塊みたいなものでしたので、拙者自身が、非常識にならないとそれをよく理解することができなかったからでした。

 また、非常識になることは、エジソンが示したように、単なるひらめきや瞬時のことであれば、常識から完全に抜け出すことはできないことから、その粘り強い徹底の継続と発展が非常に重要になります。

 おそらく、エジソンは、そのことを体験的に習得していたからこそ、創造に継ぐ創造を積み重ねていくことができたのではないでしょうか。

 徹底して非常識のゾーンのなかに入っていっていくことで「創造の正体」に接近し、出会う可能性が生まれる、これが大切なことのように思われます(つづく)。

kasatubo-11

カサブランカの蕾(沖縄市ビスタコスタにて)