梅雨の晴れ間に

 数日ぶりの晴れ、鶯など小鳥小鳥たちが囀(さえず)るさわやかな朝です。

 昨日は、若い方々が3名来られ、久しぶりにかなり深い充実した議論をすることができました。

 もちろん、そのテーマは、光マイクロバブル技術の到達点と課題、そしてその未来論に関することが主でした。

 おそらく、その活発な議論のせいでしょうか。

 昨夜は、頭が冴えた状態のままであり、いつもよりも寝入りが遅くなりました。

 時々、脳には、このような刺激があったほうがよいのでしょう。

 おもしろく、ゆかいな4時間あまりでした。

 さて月末となり、今月のガイダンスを行いましょう。

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撫子(中庭)

            333回記念

 前記事の5555回記念に続いて、今月は333回記念の記事を認めることができました。

 足掛け8年余にわたる緑砦館に関する記事でした。

 緑砦館の英訳は、「Green Fort House」です。

 光マイクロバブル技術を利用して、自分で緑の砦としてのミニ植物工場を造り、実際に野菜を栽培してみようと、前職場のT高専時代から想い立ち、その初歩を実践していました。

 そして、ここ国東に来てからは、ようやく自分の家を持つことになり、その中庭に緑砦館を設置するスペースを確保することができました。

 なにせ、野菜を栽培することは素人でしたので、いくつもの失敗を重ねながらの試行錯誤を繰り返してきました。

 しかし、マイクロバブル技術に関しては、何事も自分で確かめ、その良し悪しを確かめないと本当に理解したことにならない、このように考えて、少々の失敗であっても、それによって倒れてしまうことはありませんでした。

 ただし一度だけ、かなりの後悔と反省をしたことがありました。

 それは、新築直後の中庭において、光マイクロバブル水耕栽培の木製水路を自作したときに起こりました。

 それは、その中庭にスリッパを履いてでて、その大工作業をしたからでした。

 これによって足の親指に大きな水泡ができ、それをきちんと処置しなかったことから、そこに黴菌(ばいきん)が入り、足の手術を行い、結局68日間の入院生活を余儀なくされたことでした。

 これによって無茶苦茶は止めよう、健康を取り戻そうと改心を行うことになりました。

 この小さくない後悔と反省を基にして設置されたのが、緑砦館1~3でした。

 素人の見よう見まねで始まった野菜作りでしたが、光マイクロバブル水耕栽培の格別に優れた能力の助けもあり、偶に吃驚するような野菜が出現して、心を揺すぶられることもあったことで、これがいつの間にか、私の定年退職後の重要な営みと日課になりました。

 この体験的学習の成果について、詳しくは別稿で近々認める予定ですので、ここでは、その一つを指摘しておきましょう。

 それは、無農薬、極少肥料による栽培野菜の素晴らしさを知ったことでした。

 若いころは、野菜を好んで食べる方ではありませんでした。

 それは農薬まみれの野菜ばかりでしたので、その不味さも、そんなものなのか、そうであれば食べなければよい、と思っていました。

 それは子供たちも同じで、食べても美味しくない、何か違和感を覚えているからで、しれが嫌いな野菜になっているのではないかと思いました。

 大阪にいる孫のMIO(女性)は、ネギが嫌いで、それを一切食べていませんでした。

 ところが、我が家にきて、無農薬、無肥料で育てたMOネギを食べさせると、美味しいといってパクパク食べ始めました。

 これを見て、お父さんは本当に吃驚していました。

 その美味しさとナチュラルな味が、一挙にネギ嫌いを覆させたのでした。

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孫たち(左から、MIO、ユッツ、HONO)

 私も同じで、無農薬、極少肥料の光マイクロバブル水耕栽培の野菜をいただくと、その食べる量が一挙に増え、同時に市販の野菜をほとんど食べなくなりました。
 
 これは、私にとって非常に重要な体験的学習であり、健康の大切さを痛感させる重要な契機となりました。

 まったくの素人であっても、このような人生における野菜訓を供与してくれたのが、緑砦館野菜だったのです。

 これからも、せっせと緑砦館野菜を栽培して、それを自分他家族でいただく、この贅沢でゆかいなアグリ作業を持続させていきますので、気軽に、やさしく、そしておもしろく、緑砦館物語を述べていくことにしましょう。

 須らく雫の石を穿つ如くⅡ(5555回記念)

 前記事に続いて、今月も、そのガイダンスを示しておきましょう。

 この記念シリーズにおける最初の主人公としてシーボルトを選びました。

 その理由は、なんといっても、かれの弟子たちが、かれが日本を離れた後も、歴史の残るような活動を行い、優れた成果を出し続けたことにありました。

 その典型が、高野長英と伊東玄朴でした。

 前者は蘭語の達人であり、シーボルトと一緒に論文を発表しています。

 また、後者は、日本で初めて天然痘の予防接種を成功させ、現在の東京大学医学部の前身であった西洋医学所の設立に貢献しました。

 この二人は互いにライバルであり、長英は、シーボルト事件後に幕府に追われる身となり、全国を逃亡しながら医学と西洋の学問を究めていきました。

 一方の玄朴は幕府おかかえの医師となり、その立場から日本の医学の発展に努めました。

 このように二人の立場と行く末は、まったく相反していますが、共にシーボルトの教えに従って医学を発展させていった仲でした。

 後に、劇作家の青山青果は、『玄朴と長英』という演劇を書下ろしました。

 その演劇において、長英役の嵐圭史さんによる迫力ある演技には心を揺すられました。

 さて、この記念シリーズにおいて私が探究して見たかったことは次の4つでした。

 ①27歳という若さで日本に赴任してきたシーボルトの優秀性とセレンディピティーはどのようにして養成され、それが、なぜ日本という知られざる国において花開いたのか?

 ②シーボルトは、どのようにして弟子たちを育て、鍛えたのか?その弟子たちは、どのように成長し、自立していったのか?

 ➂その弟子たちの活躍も含めて、シーボルトが日本の歴史の発展にどのように貢献したのか?

 その発展の鍵となった法則性とはなんであったのか?

 これらを現代社会にどう生かすべきなのか?
 
 ④高野長英が生涯において座右の銘として水滴訓「須らく雫の石を穿つ如く」は、シーボルトの教えとどのように関係しているのか?

 これらの謎を解いていくことが、本シリーズにおける最初の課題です。

「光マイクロバブル・イノベーション(4850回記念)」

 これから、いよいよ佳境に入っていくところでしょうか?

 これまで、光マイクロバブル発生装置の開発の前後を、このように詳しく述べてきたことはありませんでした。

 その意味で、読者のみなさんには新鮮な記述として受け留められているのかもしれません。

 この一連の記事に関しては、愛読者の一人であるMさんから、非常に丁寧で心のこもった評価と感想をいただいていますので、それらを追々紹介していくことにしましょう。

 また、本執筆においては、マット・リドレー著『人類とイノベーション』におけるイノベーション論を参考にして考察していますので、はたして、光マイクロバブル技術は、現代のイノベーションとなりうるのか、そのことも探究してみるつもりです。

 すでに、そのいくつかの内容を照合させて対比的考察を試みていますが、これが無理なく、スムースに進んでいますので、そこにおもしろさとゆかいさを覚えています。

 これまでに執筆してきた記事は、1980年代のころのことであり、これから1990年代以降へと徐々に進んでいきますので、これは相当に長く続いていく連載になっていくでしょう。

 しかし、さすがに、6の4連番までには至らないと思いますので、どうかご安心ください。

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撫子(中庭)