シーボルトのセレンディピティー

 シーボルトは、三歳の時に父親を亡くしました。その後、母方の叔父のロッツ(牧師)に引き取られやさしく育てられました。

 また、その父親の父親の友人であったイグナツ・デリンガー(ヴュルツブルグ大学・学長代理であり、顧問官)から教育的指導を受けて、解剖学、植物学、物理学などの蛍雪を重ねたことが自己形成に重要な効果をもたらしました。

 これは、父親の死という禍を転じて福となすという契機になっていきました。

 また、ヴュルツブルグ大学を卒業して開業医をしていた折に、叔父のヴュルツブルグ大学教授は、シーボルトをオランダの軍医総監のフランツ・ヨゼフ・ハルパウルに推薦したことによって、かれは、軍医として採用されたのでした。

 折しも、オランダ政府は、軍事力に優れていたスペイン、ポルトガルとは異なる商業国家をめざし、その拠点として、オランダ東インド会社が設立され、貿易立国としての世界的地位を強めていました。

    幸運にもシーボルトは、この東インド会社を中心とした植民地・貿易政策に基づいて、インドネシアに軍医と派遣されました。

 自然豊かな東アジアの地において、軍医としての仕事をしながら、自然研究に勤しむ、これが、かれが望んでいたことでした。

オランダ貿易と家康

 1600年4月29日に、オランダの軍艦リーフデ号が大分県臼杵の黒島に漂着し、その乗組員のなかにイギリス人のウィリアム・アダムス(後の三浦按針)がいました。

 捕らえられたアダムスらは、当時の五大老首座の徳川家康に接見しました。

 家康は、世界の情勢に非常に興味を抱いていたらしく、このアダムスの率直な意見や見解を気に入り、三浦按針として通訳や相談役として取り立てたのでした。

 折から、オランダ東インド会社の商船が二隻立ち寄った際に、三浦は通訳として参加し、家康は、日本との貿易に関して友好的な姿勢を示していたのでした。

 ここから、長崎の平戸にオランダ商会が設立され、そこを拠点として、徳川幕府の家康は交易を開始したのでした。

 その後、オランダインド会社は徐々に衰退していきましたが、そのなかで、シーボルトの派遣が決められたのでした。

 こう振り返ると、若干27歳でシーボルトが日本へ派遣されるまでには、いくつもの偶然ともいってよい幸運(セレンディピティー)が重なって発生しています。
 
 すでに日本への出発の前に、その幸運さを、かれ自身が自覚して、次のように、かれの後援者に述べています。

 「東インドにいるばかりと思っていた私が、自然研究者として日本にいると突然聞かされたら、あなたは驚かれることでしょう。

 とても有利な環境にあり、とても穏健な地域、大変興味深い、そしてあまり知られていない国に、医学と自然学の研究者として、私が現れるのを見て、あなたは私の幸運を祈ってくださるでしょう。

 中略

 動物学、鉱物学、そして植物学は、日本では、ツェンペリーの時代からほとんど進歩していません。

 戦争、誤解、唯一入国を許可されていたオランダの学問的な使者、また単なる拝金主義者の使者たちなどが、おそらく自然研究の停滞と遅れの原因です。

 それゆえ、不思議の国、日本からの自然史に関する報告は。これまで常に、信頼できないもの、おとぎ話のようなものを含んでいました。

 それだけに自らの目で観察した真理と学問的内容を備えた覚書は、いっそう興味深いものになるでしょう」

 このように、シーボルトは、日本に赴任して自らが行うことの視点を確立して、その使命を達成することにこの上ない幸運さを自覚していたのです。

 単に医学だけには留まらない、自然学という幅広い視野に基づく見識が、かれの成功の根源にあったことが注目に値します。

 しかも、事前に日本の自然学を調査研究し、その問題点を理解し、さらには、それまでのオランダからの使者たちの数々の失敗についても検討していたのです。

 わずか27歳の駆け出しの若者医師が、不思議な国の日本に、生き生きワクワクしながら乗り込んできたのです。

 そして、この若者に、数多くの日本人が啓発され、魅了されていったのです。

 かれのなかに扶養されていた研究心が、日本を変えていったのでした。

 おそらく、それらは、須らく雫の石を穿つ如くの様だったのではないでしょうか。

 次回は、いよいよシーボルトの日本上陸に分け入ることにしましょう(つづく)。

 参考文献:ヴォルフガング・ゲンショレク著『シーボルト』講談社 1993年

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                ゼラニウム(中庭)