5555回記念(2)

 この記念すべきシリーズにおいて最初に取り上げた人物は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトでした。

 かれは、27歳という若さで来日し、たくさんの弟子を育て上げ、かれらとともに「日本大研究」を成し遂げていきます。

 医師であり、学者であり、さらには、今でいうプロジェクトマネージャーにおいて格別の才能を発揮させた人物であり、その指導と教育によって、その後の日本の歴史的変革に「小さくない影響」を与えた方でもありました。

 なぜ、27歳の若者が、このような偉大な仕事を成し遂げることができのか? これは小さくない驚きとともに、深い疑問でした。

 27歳、これは、わが国の場合、大学や大学院を出て数年後であり、未だ修行や訓練の歳であり、私自身も駆け出しのころでした。

 かれが、見知らぬ国としてインドネシアや日本を訪問し、そこで、前記事において示した13項目もの分野における研究をしようとしたスケールの壮大さと比較すると、当時の私が行おうとしていたことはあまりにも狭小で拙く、比較にならないほどのものでした。

 なぜ、このように違うのであろうか?

 そう思いながら、まず、かれの生い立ちを調べてみました。

 かれは、ドイツ中央部からやや南に下ったところにあるヴュルツブルグという小さな都市で1796年に生まれました。

 ヴュルツブルグといえば、あの有名なロマンチック街道の起点の都市であり、ここから南下して、ローテンブルグ、アウグスブルグ、そして終点のフッセンなどがあり、さらにその南にはミュンヘンも位置しています。

 中世においては、これらの都市においてもカトリック系の教会が絶大な権力と富を有し、農民たちは、農奴として働かされていました。

クリストフ・シーボルト

 シーボルト家は歴代医者の家系であり、フランツ・シーボルトの父親のクリストフ・シーボルトは、ヴュルツブルグ大学医学部の教授であったカール・シーボルトの長男として生まれました。

 この大学は1402年設立という、ドイツでも古い歴史を有する大学であり、レントゲンほか数名のノーベル賞受賞者が輩出されています。

 また、歴代シーボルト家出身者が就任した医学部も有名であり、シーボルトという名前は、ドイツ外科学の歴史における専門学派として特徴付けられてきたのでした。

 父親のクリストフは、一般医学、食餌療法、産科学、生理学などを教え、病院では主任医師として従事し、さらに家族を養うために開業医医師としても日夜働くという苦労を続けていました。

 しかし、そのせいでしょうか。

 かれは、33歳という若さで肺病のために逝ってしまうことになりました。

 この時、息子のフランツ・シーボルトは3歳であり、父の面影や苦労を何も知らないままに悲しい別れを余儀なくされたのでした。

 その後、フランツは、母方の叔父ロッツ(牧師)に引き取られて育てられました。

 13歳になってヴュルツブルグのギムナジウム(小中高一貫の学校)に入り、医者になるための勉強を開始しました。

 この時に、父親の友人であったイグナツ・デリンガーのところに住み込んだことが幸いしました。

 かれは、ヴュルツブルグ大学の学長代理であり、顧問官でもありました。

 この時、フランツは、叔父のエリアス・シーボルトに次のような手紙を送っています(1818年、22歳)。

 「私は、大学の学長代理で顧問官のデリンガーのところで過ごしました。かれの指導を受けて、私はきっとあなたが満足するような修練を積んでいくでしょう。解剖学、植物学、物理学を、私は彼の監督のもとに勉強しています」

 ここで、フランツは、解剖学をはじめとする医学の勉強のみではなく、その基礎となる物理学や生物学の一つとしての植物学についても学び、幅広い素養を身に付ける勉強に毎日励み、充実した学生生活を行っていたことが注目されます。

 また、その教師としてのデリンガーは、研究とともに教育を行なうことの大切さを教える、すなわち研究と教育を両立させることの重要性を説き、「学問的意味での覚醒」、すなわち、学問を積み重ねることによって新たな真実を見出すという創造性を養うことを最も重要な教育目標としたのでした。

 フランツは、このデリンガーの教育、研究観の実践者であり、その資質の養成と修練の成果が、やがて日本において花開くことになっていったのでした。

 若きフランツ・シーボルトの原点は、デリンガーによる教育指導にあったということができるでしょう。

 解剖学、植物学、物理学などの学習の雫が、鎖国のなかにあった日本という意思の上に落ち続けることによって、その学問としての「知の力」が、それを内部から穿つようになるまで成長していったのではないでしょうか。

 かれは、ヴュルツブルグ大学を卒業して、地元で開業医の仕事に勤しんでいました。

 そのかれに、オランダ政府が、軍医を公募しているという知らせが届きました。

 この応募が、かれの運命の扉を、より大きく開けることになりました(つづく)。

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                中庭の花