5555回記念(1)
本ブログにおいては、50回と100回を記念して特集の記事を認めてきました。
先日は、その5550回を迎え、それをどうしようかと案じていました。
いつものように、50回ごとの記念にするか、それとも、4つ数字を並べた語呂の良い記念シリーズにするか、そのテーマと内容を考えているうちに、その5550回が過ぎてしまいました。
さて、どうしようか?
その記念すべき5555回を迎え、ようやく思い浮かべたのが、高野長英による、この言葉でした。
すでに、その学則の第一条の「須らく雫の石を穿つ如く」は、シリーズものの記事として32回も認めていました。
しかし、このシリーズは、「記念シリーズ」ではなかったことから、そのⅡとして、めでたい5555回の記念シリーズを改めて書き下ろすことができるのではないか、このアイデアを思いつきました。
もちろん、5の数字が4つ並ぶことは初めてのことであり、この縁起を大切にして、このシリーズ名にふさわしい記事を認めることを試みようかと、やや前向きの思いが湧いてきました。
この5の4連数字は、前向きにプラス思考で進めという意味を表わしていますので、それにあやかっても悪くはないでしょう。
それにしても、この5555回はかなりの数の積み重ねであり、一朝一夕には達成できないことです。
こう思って、この特別の記念シリーズを開始することにしました。
須らく雫の石を穿つ如くⅡ
すでに述べてきたように、この言葉は、高野長英が、宇和島の伊達宗城公に招聘された際に、わずか数名の弟子たちのために開いた五岳堂という塾の学則の第一条に記したものでした。
近代における偉大な西洋哲学者であった鶴見俊輔は、その最晩年において『評伝高野長英』を執筆し、そのなかで、長英の最高の仕事として、この学則を指摘しています。
また、高野長英は、宇和島に潜伏していたことを幕府に知られ、江戸へ、さらには上州へと逃避行を続けていきました。
その際、上州の鍋屋旅館においてオランダ語で次の水滴学問訓を残しています*。
「水滴は力に寄らずして落ちることによって石をも穿つ」
*:『続水滴は岩をも穿つ』、川嶌眞人、㈱梓書院、2021(この学問訓は、オランダ語において木に彫りこまれていたそうです)
この参考文献の著者である川嶌先生に高野長英による、この学問訓について次のように尋ねてみました。
「この『水滴は・・・』の用語は、五岳堂の学則の第一条に書かれており、その用語は、西洋の文献から引用したことが示されています。
この西洋の文献について、先生は何かご存知でしょうか?」
「それは解りません。おそらく、シーボルトか、それに近い人が関係しているのではないでしょうか」
この会話がきっかけとなって、シーボルトに関する文献を数冊購入して調べてみましたが、それに関係する箇所を見出すことはできませんでした。
しかし、シーボルトが、日本に与えた影響は小さなものではありませんでした。
そのことは、シーボルトの鳴滝塾の門を叩いた弟子の多さと幅広さに現れています。
しかも、かれは、その弟子たちに西洋医学とともに日本の調査研究をさせ、それをまとめて論文化を促し、その成果を評価して「ドクトル(博士)」の称号を与えたのでした。
かれは、27歳の時にオランダ政府から派遣されて長崎に到着、その翌年には早くも鳴滝塾を開き、その弟子たちを受け入れ始めたのです。
オランダ政府は、日本との貿易を行なうための調査研究、すなわち日本に関する総合的な研究(万有学的調査研究)を、若きドイツ人のシーボルトに託したのでした。
そのかれは、ドイツ人でありながら、日本ではオランダ人として称して、次の実践的な研究を行いました。
1)宗教
2)風俗習慣
3)法律及び政治
4)農業
5)所得及び税
6)地理及び地図
7)芸術及び学問
8)言語
9)自然研究
10)薬草学
11)珍現象
12)職員関係
13)会計
これらの統括的遂行を若きシーボルトが担ったのですから、それは大変な事業でした。
そこで、かれは、多くの弟子たちに、これらに関する学問研究をさせながら、同時に専門の技術者や地域住民からも小さくない支援を受けて、その実行に励んだのでした。
ここで重要なことは、オランダ政府の要請であったとはいえ、これだけの幅広い分野における日本研究を行う上で、シーボルト自身が、それらを統括しながら遂行していく幅広い視野と実践力を身に付けていたことです。
これは医学を極めた単なる医者ができることではなく、かれには、それにふさわしい資質があり、むしろそれを積極的に好んで科学的探究を行おうとしたことが大いに注目されます。
日本との貿易を円滑に、そして幅広く行うために、これらの13項目にわたる事項を科学的に研究させようとしたことに、緻密で深い、そして壮大な構想が垣間見えます。
若きシーボルトは、このオランダ政府の要請にふさわしい人物だったのでしょう。
これらの研究は、水滴が自ら落下して乾いた石に落ち、自然に浸透していくようになされていきました。
27歳といえば、大学教員に例えれば助手に成り立ての頃であり、かれが日本を追放されるまでの7年間(33歳)において、数々の探究の成果が積み重ねられていくことになりました。
この弟子たちとの共同研究の成果の一つ一つは、その学問研究の雫が、ひとつづつ落下して石の上に落ちることによって、やがては、それを穿つことに結びついていったのです。
細部に宿っていた学問の真実と真理が、強固な石や岩であっても、やがてはそれを穿ち、破壊してしまうことに結びついていったのではないでしょうか!
シーボルトが日本から追放されたのは1829年、33歳の時でした。
その後、日本は、激動期を迎え、1967年に大政奉還、1968年に明治維新が起こりました。
シーボルトと俊英の弟子たちが、頑迷固陋で強固な岩を、それこそ雫となって穿って行ったのではないでしょうか?
高野長英が示した学則の第一条の言葉は、それを可能とする力を秘めていたように思われます(つづく)。
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