奥の細道における最大の謎(2)
松尾芭蕉は、弟子の曽良とともに奥の細道を、自らの笠に書き記した「同行二人」の如く旅してきました。
全行程150日にわたる長い旅の大半を終えた最終盤において、この曽良との別離は、芭蕉にとって思いもよらなかったことでした。
しかも、曽良は、胃腸が痛むといいながら山中温泉に留まるのではなく、芭蕉よりも先に終点の大垣をめざして旅立ったのです。
そして、後からやってくる芭蕉の宿賃を先に支払うことまでしています。
この曽良については、NHKBS1における「英雄たちの選択」の番組において興味深い発言がなされていました。
曽良の隠された任務
歴史学者の磯田道史は、曽良が、後の1709年に幕府の巡検使随員となり、隠密のような行動をしていたことを指摘しています。
また、芭蕉に詳しい作家の嵐山光三郎は、曽良が付随していることは芭蕉の奥の細道は「公務である」と述べています。
これらの発言を踏まえて、番組は、当時の江戸幕府と伊達藩の緊張した関係を指摘しています。
徳川幕府は、仙台藩の勢力を減ずるために、1688年の「元禄の日光普請」によって日光東照宮の修理をさせます。
これによって、仙台藩は、金13万4300両、米約8600石、役船2600隻ほかで多額の出費をさせられ、そのために仙台藩の武士の給料は約3割以上をカットされていました。
当然のことながら、仙台藩の武士たちは、幕府の普請に不満を有していました。
芭蕉らが、奥の細道に旅立ったのは、翌年の3月27日ですので、日光、仙台藩に踏み入れることには幕府からの何らかの依頼があったのではないか、このような推察がなされています。
その日光東照宮を訪れた芭蕉は、何も句を詠まず、にぎやかな参拝の様子を眺めたのちに、すぐに立ち去っています。
また、当時の幕府の管轄は、白河の関までであり、そこから先は、自由に踏み入ることができなかった場所であり、普通であれば、仙台藩内に入っていくことも禁じられていたはずです。
そして仙台藩に足を踏み入れた芭蕉らは、ほとんど句を詠まないままに不可解な行動をしたとされています。
その行動とは、第1に米などの積出港であり、当初の予定にはなかった石巻港を訪れたことであり、第2は、仙台藩の貴重な金鉱であった小黒埼を訪れていたことでした。
この金鉱においては、落盤でよく金鉱夫が死んだそうで、この一帯は「死人山」とも呼ばれていたそうです。
仙台藩が極秘裏に金の採掘をしていたとなれば、幕府は、その情報を何としてもえたかったのでしょう。
この日光と松島をはじめとする仙台藩においては、芭蕉が詠まれた俳句がごく少数であったことも頷けるように思われます。
そして曽良は、幕府から、何らかの諜報活動に関する密命を負わされていたかもしれないと考えられます。
最近になって、芭蕉忍者説、隠密説を探究する研究事例が増えてきているそうですが、そうであれば、ますます、芭蕉はおもしろい俳人ということができそうです。
これに関連して磯田道史氏は、尾張藩における甲賀の忍者に関する教科書のなかで、忍者は、俳人や短歌者、茶人になるのがよいと書かれていることを紹介していました。
これらのことを考慮すると、山中温泉における曽良の別離は、自分の体調の悪さとは異なる事情の何かがあったのではないか、と考えられます。
それは、曽良の隠された任務の事情において、やむなく、芭蕉との別離を余儀なくされたのではないでしょうか。
おそらく、曽良の心境も複雑なものだったでしょう。
こうして、弟子の北枝とも那谷寺で別れ、最後は一人旅となりました。
次回は、その一人旅による大垣までの最後の奥の細道に分け入ることにしましょう(つづく)。

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