二人の「ダ・ヴィンチ」研究(6)

 渡辺崋山と高野長英による「レオナルド・ダ・ヴィンチの研究」において、重要な問題は、「レオナルド・ダ・ヴィンチは生まれつきの天才だったのか、それとも、かれの環境がそうさせていったのか」を明確にすることでした。

 「長英さん、レオナルド・ダ・ヴィンチは、生まれつきの天才だったのでしょうか?

 それとも、かれの成長とともに優れた資質を磨いていったのでしょうか?

 かれの成長とともに才能が洗練されていったのか、このことに非常に興味を覚えています」

 「崋山さん、さすがですね。目の付けどころが素晴らしいですよ。

 じつは、私も、その点が気になって、二宮敬作から送られてきた資料を丹念に調べてみました。

 そうすると、非常におもしろいことが解ってきました」

 「そうですか、あなたも私と同じでしたか。そのおもしろいこととは何だったのですか?」

 「前に、レオナルドが非摘出子であることを指摘していましたが、じつは、当時のフィレンチェにおいては、この非摘出子が珍しくなく、しかも、ばりばりと活躍していたのですよ。

 それゆえに、レオナルドは、非摘出子だからといって、そのことを卑下することはありませんでした。

 幼いころに、生みの母親から別れさせられたことは、大変ショックだったようですが、その後、叔父のアントニオと父親の弟であるフランチェスコにやさしく養われたことも、かれに人格形成にはプラスになったようです。

 また、非摘出子がゆえに教会が運営する学校に行けずに、同世代の子どもたちにいじめられはしましたが、それにもくじけず、ラテン語や古代ギリシャ語の勉強よりも、自分が興味を抱いたことの実践を行うことがより大切だと思うようになりまっした」

 「父母の愛は受けられなかったけれども、自分で考え、実践していくという自立への道を歩み始めたのですね。

 これは、長英さんや私の境遇とよく似ていませんか?」

 「私も、そう思っています。

 崋山さんの場合、とても父母から大切にされて厳しい教育と躾を受けましたが、家が貧乏であったことから、好きな絵を学んで身につけ、上手になってからは、その絵画を生計に役立てていました。

 これは、幼いながらも家計を助ける行為でした。

 私の場合は、親の了解を得ないままに兄と一緒に家出して江戸で医学を学びました。

 生計は、昔習った按摩をすることで成り立ちました。

 江戸では、按摩のお客さんが多くて助かりました。

 しかし、そのなかで兄が病気になり、看病のかいもなく逝ってしまいました。

 そこで、いよいよ後がないと思って、長崎のシーボルト先生を訪ねました」

 「それは、あなたの医者としての自立の旅だったのですよ。

 あなたは、真に、たくましい。うらやましいですよ!

 ところで、そのレオナルドの自立の旅は、どうだったのですか?」

自立への旅立ち
 
 「レオナルドの場合、次の3つの要素がありました。

 その第1は、父親としてのピエロからはほとんど世話を受けていませんでしたので、自ずと自立の問題を考えざるをえなかったことです。

 非摘出子であり、正規の認証がなされなかったことから、教会の学校には行けなかったことから、公用語であったラテン語を勉強することができませんでした。

 そのため、レオナルドは野山の自然のなかで遊び親しむことによって、そのなかで、さまざまなことに興味を抱く少年になっていきました。

 そして自然のふしぎな現象が起こることについて深く考え、疑問を持つようになりました。

 また、そのなぜに関して、自分で実践して試すことが好きになりました。

 第2は、母親のエカテリーナからも離され、叔父と暮らすようになり、父母の愛を受けることができない状態で育ったことでした。

 幸い、叔父のアントニアによって大事の育てられたことによって、レオナルドの性格が歪み、卑屈にならずに済んだのでした。

 第3は、同じ非摘出子でありながらも、当時のフィレンチェにおいて堂々と活躍していた二人の先輩がいたことでした。

 幼いレオナルドは、この先輩に憧(あこが)れ、この二人のようになりたいと思っていたのです」

 「なるほど、その3つ目は、おもしろい指摘ですね!その二人とは誰なのですか?」

 「それは、フィリッポ・ブルネレスキという人物であり、その後継者であったレオン・バティスタ・アルベルティです。かれらは、二人とも非摘出子であり、しかもブルネレスキは、レオナルドの父親であったピエロと同じ公証人の息子でした」

 「そうか、この二人の先輩の仕事が、レオナルドを勇気づけたのですね」

 「そうですよ。この先輩たちの活躍を知り、レオナルドにとっては、非摘出子であることを少しも卑屈に思うことはなかったのですよ!

 フィレンチェの先輩たちと商業都市という環境が、レオナルドを育てていったのです。

 これは、レオナルド・ダ・ヴィンチは生まれつきの天才ではなく、フィレンチェを始めとする国家と進歩的文化人が、かれを育てていったと考えてよいと思います」

 「そうですか、そうであれば、ますます、レオナルド・ダ・ヴィンチがどう育って、どう成長していったのかを知りたいですね」

 長英と崋山は、この二人の先輩の仕事が、どのようにレオナルドに影響を与えたのかについて調べ、考究していくことにしました。

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  フィレンチェの大聖堂(
ブルネレスキが、この建設に寄与、ウイキペディアより引用)