二人の「ダ・ヴィンチ」研究(5)
渡辺崋山と高野長英による「レオナルド・ダ・ヴィンチの研究」の続きです。
「崋山さん、二宮敬作から送られてきた資料は、レオナルド・ダ・ヴィンチの3つ目の伝記の一部のようでした」
「ということは、それ以前に2つの伝記があったということになりますね」
「ご指摘の通りです。この伝記では、レオナルドがホモであったということが、やたら詳しく記されています」
「えっ!それは本当ですか?」
「私も、吃驚していろいろと調べてみましたが、どうやら、そうだという説と、そうではないという両方の説があるようですが、いずれも説得力ある証拠は明らかになっていないようです。
ただし、左利きで、菜食主義者であったことは確かなようです」
「そうですか、肉などは食べなかったのですか、これは私どもの食生活とよく似ていますね」
「どうやら、かれは動物の研究をしていて、それを殺して食べることに相当の違和感を覚えたようです。
かれは、鳥や馬の研究を行い、その肉体の内部構造が知りたくてたくさんの解剖をおこなったそうですが、その時に、動物の体内を切り刻むようになり、それと同じものを口にすることはできないと思うようになったそうです」
「やさしくてまじめな人だったのですね。解りますよ、その気持ち」
普通の子どもだった
「私が、この伝記を読んで、一番興味を持ったことは、レオナルドは、最初から絵画や建築技術の天才ではなかったということです。
幼いころは、普通の子どもだったようです」
「そうですか、それは興味深いことですね。
しかし、公証人の父親からは、あまり大切にはされなかったのではありませんか?」
「その通り、父親のピエロは、レオナルドの教育に熱心ではありませんでした。
しかし、そのことが、レオナルドにとっては、かえってよかったのです。
非摘出子として生まれたレオナルドは、父親の下では育てられず、母親も、すぐに別の男性と結婚し、子供を産んでいましたので、レオナルドを引き取って育てる余裕はありませんでした。
そこで、叔父のアントニオがレオナルドを引き取り、大切に愛情深く育てました。
父親のピエロは、別の女性と結婚して子供を得ようとしましたが、それができずに、レオナルドが28歳になるまで、子供づくりができないままで、その妻も死産で亡くしてしまいました。
しかし、三番目と四番目の女性と結婚を行い、最終的には11人もの子どもを得ることができましたので、レオナルドのことは、最初から最後まで眼中にはなかったのだと思います」
「私どもの武士社会では考えられないことですが、長英さんは、かえって、その方がレオナルドの自立においては都合がよかった、こういうのですね!」
「そうです。それは、武士社会と商人社会の違いが関係しています。
レオナルドが育ったフィレンチェは、もっとも進んでいた商人都市であり、君主や教会よりも商人の方が実権を有し、政治を任されていました。
その結果、政治や文化の中心においては自立した商人たちがいたのです。
そのために、商人が活動する際には、公証人というポストが必要でした。
レオナルドの父親のピエロは、この公証人の家系であり、なかなかのやり手で商売繁盛していたようです」
「公証人の仕事が忙しくて、レオナルドのことは叔父に預けっぱなしであったということですか?」
「どうやら、そのようでした。叔父のアントニオにやさしく育てなられながら、一方で、父親からの制約もなく、自由奔放に人格が形成されていったことがよかったのではないでしょうか。
5歳の頃のレオナルドは、普通の子であり、何事にも好奇心旺盛でした。
ああしなさい、こうしなさい、勉強しなさいなどといわれずに済んだことが、よかったのではないでしょうか」
「なるほど、私たちは、幼いころから読み書きを勉強しなさいといわれますが、そのような躾はなかったのですね」
「そうです。レオナルドは自由に育てられました。
だれもが、教会に行ってラテン語を勉強し、ビジネス上の公用語であったラテン語を読み書きするという躾の外にいたいたのです。
ところが、この頃になると、グーテンベルグの印刷機の登場もあって自国語の普及が盛んになされるようになり、必ずしも、ラテン語を勉強しなくてもよくなりつつあったのです。
そして、フィレンチェでは、文化、芸術の爆発といわれたルネサンスが始まっていたのです」
「そのルネサンスとレオナルド・ダ・ヴィンチの関係は、どうなっていたのでしょうか?」
「そこが重要なところですよ。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、その文化、芸術の爆発のなかで生まれ、育って行ったのですよ!」
次回は、ルネサンスのなかのレオナルドについてより深く分け入っていきましょう(つづく)。
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