金沢から山中温泉へ

 芭蕉らは、弟子の北枝も新たに加わって、曽良と共に3人で山中温泉に向かいました。

 金沢では、愛弟子の一笑の悲報に接して悲嘆にくれていた芭蕉でした。

 それでも、9日間の逗留において句会を催し、ようやく気を取り戻しての旅立ちでした。

 一行が北陸時を南下して最初に訪れたのが、多太神社(小松市)でした。

 ここには、斎藤実盛の兜が祀られていました。

 この兜には次の逸話がありました。

 実盛は、もともと源義朝の家臣であり、その時に、一族の争いで乳飲み子であった後の木曽義仲が殺されかけていたところを助けた、義仲にとっては恩人でもありました。

 しかし、かれは義朝が平治の乱で平家に敗れて流浪し、その後平家方の武士として迎えられていました。

 その実盛は、立派に成長した木曽義仲の軍と加賀の国の篠原の戦いにおいて、最後の一人になるまで獅子奮迅し、亡くなってしまいました。

 この時、実盛は、自分を返送して白髪の髪を真っ黒にしていたそうであり、木曽義仲は、亡くなった実盛といわれる黒い髪の頭の毛を洗い、それが白髪だったことで実盛であることを確かめたのでした。

 義仲は、泣きながら、悲嘆に暮れて、実盛のかぶっていた兜を多太神社に寄贈しました。

 そして、その義仲も頼朝軍に敗れ、31歳にして逝ってしまうという悲劇の主人公となりました。

 松尾芭蕉は、このような悲劇のヒーローが好きで、源義経とともに義仲にも心を寄せていて、すでに述べたように、「自分が死んだ後は、義仲の墓の横に埋めてくれ」といっていたそうです。

 それゆえに、芭蕉は、この多太神社の兜を感慨深く観たのでしょうか、次の句を読んでいます。

 むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす

 芭蕉は、義経を偲んで読んだ、

 夏草や 兵どもが 夢の跡

の句を思い出されたのでしょう。

 木曽義仲と斎藤実盛の悲劇を示す兜を観ながら、その下にコオロギ(当時は、コオロギのことをキリギリスといっていた)が鳴いている姿を想像されたのではないかと思われます。

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実盛の兜(こまつ観光ナビHPから引用)

 また、この兜を見て、森村芭蕉は、次の句を詠まれています。

 口惜しや 兜(かぶと)の奥の 虫を聞き

 かれは、耳を澄まして史音を聞こうとしましたが、それは難しかったようで、そこでは、830年前という遠き昔の時の隔たりを感じたようでした。
 
 この多太神社の近くに、後に歌舞伎で有名になった「安宅の関」がありました。

 ここで、弁慶は義経を棒で強く叩いて言い逃れをしようとしますが、それを見た関主の富樫は、何も言わずに関所を通過させます。

 この名舞台が安宅の関でした。

 本来なら、義経好きの芭蕉ですので、わずかに4.7㎞しか離れていない、この関を訪れたはずですが、なぜか、そのまま山中温泉に向かいました。

 ここで森村芭蕉は、この謎解きを行います。

 かれは、山中温泉の宿の若き主人で弟子桃(とうよう)に早く会いたかったからだと推理しています。

 金沢における愛弟子の一笑の訃報に接し、嘆き悲しんでいた芭蕉は、余計にも自分の弟子に会いたくて、山中温泉への道を急いだのでしょう。

 また、自分と曽良の胃腸の不調から、それを温泉で和らげたいと願ったからでしょう。

 時の山中温泉は、菊の湯という大衆温泉しかなく、そこでさぞかし心身を癒されたようで、「この温泉に入ると寿命が延びる」という文を残しています。

 宿泊は弟子の桃夭が経営する泉屋で、ここで心のこもった歓待を受けました。

 そして、芭蕉は、桃夭らに向けての挨拶句として次を詠まれています。

 山中や 菊は手折(たお)らぬ 湯の匂

 山中温泉は、菊の露をもの必要がないほどに健康になる温泉で湯の香りもよいことを詠ったそうです。

 芭蕉らは、この温泉を非常に気に入り、9日間を過ごしました。

 森村芭蕉は、これらの芭蕉の行動を観察し、当初の「旅恋」から「人恋」に変化してきたようだと仰られていました(つづく)。
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山中温泉(山中温泉HPより引用)
(男女混浴の山中温泉の絵図)