不易流行

 奥の細道も、新潟から北陸道を南下して金沢に向かう旅路になりました。

 松尾芭蕉にとっては、最大の難関だった北陸横断を終え、ほっと安心しながら酒田へ、そして平地を伝って、新潟から市振に到達してきたのでした。

 そして、お隣の出雲崎の宿屋で、「荒海や 佐渡に横たう 天の河」の名句を詠まれたのでした。

 同じく、その出雲崎を訪れた森村誠一さんは、これまでの芭蕉の旅路全体を振り返りながら、その奥の細道の本質を次のように回想されています。

 芭蕉の句魂は、「不易流行」の一言で表されています。

 森村芭蕉は、不易とは「不変のもの」、流行とは「時代とともに動くもの」と解しています。

 芭蕉は、この時代とともに動きながら不変のものを求めて、奥の細道に旅立ちました。

 なぜ、それが、見知らぬ土地と人々が多い東北路を選んだのか?
 
 それは、より厳しい旅路のなかで、その不易流行の精神をより深く追い求めたかったのではないでしょうか。

 「不動のものと、時代と共に流れゆくもの、一見矛盾するような相反性が結合・調和してこそ、風流の極みに達するという悟りは、初めて芭蕉によって切り拓かれたものである」

 こう森村芭蕉は、松尾芭蕉の本質を示しています。

人生観の実行を啓示

 芭蕉は、江戸において俳句の師匠として名をなし、弟子たちも増えて、そのまま江戸に定住しておれば、その地位を保つことができたはずでした。

 しかし、それでは、かれの人生観を実行できないと考えられたのでしょう。

 その人生観には、旅のなかでしか分け入ることができない、これこそ、かれの「老いの覚悟」だったのではないでしょうか。

 森村誠一さんは、若いころに全国各地の山を踏破し、その旅の厳しさを実感していました。

 同じように、種田山頭火も旅のなかに自分を置き、あの私が好きな名句を詠みました。

 分け入っても 分け入っても 青い山

 また、愚かで、学のない車寅次郎も、同じように、厳しい旅のなかで自分の人生観を全うしようとしました。

 それらは、松尾芭蕉が奥の細道を通じて悟った「人生観の啓示」への自然のアプローチや発露であるように思われます。

 この旅の意味を、本「私の旅日記」においても探究していきたいですね。

 (つづく)。
 
huri-22
フリージャ