孫たちからのプレゼント(3)
先日の敬老の日の素敵なプレゼントの箱のなかには、山梨産「ぶどう」のほかに、山梨産の「ほうとう」と「おやき」が入っていました。
いずれも私の好物であり、娘(しらたまちゃんのお母さん)から、何か好きなものを送りましょうか、と尋ねられた時に、私は決まって「ほうとう」を依頼します。
それは、うどんなどを作る小麦粉を練って平たくしたものであり、名古屋産のキシメンにも、その形がよく似ています。
しかし、味は異なっていてコシがあり、キシメンのように、あまり噛まずに飲み込むものではなく、よく噛んで味わうものが、「ほうとう」といってよいでしょう。
昔、武田信玄は、この「ほうとう」を戦場での常備食にしていたそうであり、これと一緒に、カボチャなどの栄養野菜をいれて煮込んでいたそうです。
その「ほうとう」がなぜか、食の性に合うようです。
食べ方は、寄せ鍋に入れて野菜と一緒にいただく方法とフライパンで焼きそば風に炒めていただく方法の二通りですが、後者の料理は相棒2が得意です。
さて、ほうとうが好きだった武田信玄は、生涯、城を建てなかったことで知られています。
その代り、拠点としたのは、今も祀られている武田神社であり、ここの地形は、後ろは山、周囲には掘りがあり、さらに、前面には、なだらかで延々と続く坂道があります。
甲府駅からは、このゆるやかな坂道を上っていくと、信玄神社に到着します。
その神社側から眺めると、眼下には、その坂道が観えますので、敵が攻めてきても、それをすぐに見つけ、あの武田の騎馬軍団が攻め込むということを想定していたのでしょう。
みごとな天然の要塞であり、これならば城は不要だと、私も、その坂道を歩いてみて、そう感じました。
シーグラス
それは、シーグラスでした。
周知のように、山梨県は陸地に囲まれていて、どこにも海岸線がない県です。
しかも、その中心の甲府市は、広大な盆地であり、夏は暑く、冬は寒い処です。
それゆえ、果物が日本一美味しく、数々の名産品があります。
それに対して、国東は、海岸線を持つ地域であり、しかも、人口が少ない過疎地域でもありますので、どこに行っても、海で遊ぶことができます。
孫たちが最初に訪れた海岸は、奈多海岸だったようで(杵築市)、そこで海水浴を楽しみました。
その折、そこの浜辺でシーグラスを見つけました。
そしてら、その4人の孫たちが、競い合って、そのシーグラスを収集し始めたのでした。
このシーグラスは、宮古島のある海岸において収集できるのだそうで、そこに毎年のようにいって、それを集め、さらに、それでアート作品をつくる、これを、東京のある社長から見せてもらったことがありました。
器用な方でしたので、その作品は芸術性に溢れていました。
海のない、甲府の孫たちにとって、海に散在しているシーグラスは、まるで宝物のように感じたのでしょう。
その日から、毎日のように、国東の海岸で、そのシーグラスを集めに出かけていくようになりました。
すでに、その時には、一斉にクラゲが出てきていましたので、その収集に夢中になっていたのでした。
CHIBE君も、その一人でした。
集めてきたシーグラスを大切そうに箱に入れ、その一部を砂が入ったペットボトルのなかに入れ、それを振って、今度は、シーグラスづくりを始めました。
そんな簡単な運動では、シーグラスの角が丸くなるわけではないのですが、そうして見たかったのでしょう。
その日から帰るまで、それを振り続け、そのボトルごと持って帰りました。
ガラスが割れて、細片となり、その角が取れて丸くなり、独特の美しさが醸し出されるようになるまでには、相当の年月を要するでしょう。
おそらく、何十年、あるいは、百年の月日を越えているのかもしれません。
その歴史を経て形成されたシーグラスは、大変貴重なものと見なしてよいでしょう。
おもしろいことに、孫たちが拾ってきたものには、陶器の破片が混ざっていました。
陶器は、ガラス以上に堅いはずであり、この破片にも歴史の経過を覚えました。
そして海のない孫たちにとっては、貝殻も貴重品でした。
この宝物の収集に毎日のように出かけていった孫たちは、素晴らしい体験的学習をしたようでした。
おそらく、CHIBE君らは、このシーグラスを生涯の宝物として保管するでしょうし、それを眺めながら、国東の海岸を幾度となく思い出されることでしょう。
国東の海岸には宝物がある、今度はそう思ってやってくるのではないでしょうか。
第一回O家のサマフェスは、孫たちにとってはシーグラス発見の旅でもありました(つづく)。
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