新潟

 酒田を旅立った芭蕉らは、一路新潟に向かいました。

 この折、芭蕉は体調を崩し、その道程は平道であったにもかかわらず、おだやかではなかったようでした。

 ようやく、新潟に辿り着いたようでしたが、今度は宿泊先が見つからず、日も暮れて途方に暮れていました。

 そんな折、親切な大工源七に話しかけられ、事情を話して、その母親の家に泊めていただくことになったそうです。

 不易流行、旅になかにこそ句道があると思って旅に出た芭蕉でしたが、このように侘しい思いをすることを覚悟しなければならなかったのでした。

 さぞかし、この大工源七と母親の親切さをありがたく思われたことでしょう。

 海に降る 雨や恋しき 浮身宿

 この句は、奥の細道には記載されていないそうですが、この時の芭蕉の気持ちがよく表現されている句だと伝えられています。

 因みに、浮身宿とは遊郭のことであり、恋をした遊女が、海に雨が降る情景をえがいたのでしょうか?

 酒田から新潟までの9日間の旅は、弟子たちもいない、見知らぬところであり、それまでの険しかった東北横断の旅の疲れが一挙に出てきたのでしょうか、奥の細道には、ほとんど何も記載されていません。

 そんな体調不良のなか、芭蕉は、西生寺に向かいました。

西生寺(さいしょうじ)

 体調不良のなか、芭蕉は、奈良時代に建立された西生寺を訪れています。

 この寺の御本尊は、純金製の阿弥陀如来像であり、その大きさは5㎝あまりであり、インドから伝わってきたそうです。

 733年に行基上人は、より大きな阿弥陀如来像を製作し、そのなかに、この純金製の本尊を安置させました。

 これで、このご本尊を誰も見ることができなくなりました。

 その後、今度はさらに大きな阿弥陀如来像が造られ、この行基の阿弥陀如来像自体が挿入、安置されたのでした。

 現在、12年に一度の鼠年にだけ、開帳される阿弥陀如来像は、その三重構造の表面にあるものであり、それだけ大切な秘仏とされているようです

 芭蕉は、この阿弥陀如来が祀られている西生寺本殿の参拝を済ませ、次の弘智法印即身仏霊堂に向かいました。

 この弘智法印は、若くして出家し、全国各地を渡り歩き、寺院を建立しながら修行を重ねて高僧になられた方でした。

 そして、この西生寺で修行を積まれ、生きたままで仏になることを決意されたそうです。

 そのために、3000日に及ぶ厳しい修行を重ねられました。

 五穀を食することを絶ち、野菜や木の実を食べて腐敗しない体づくりをしました。

 そのミイラ像が、弘智法印即身仏霊堂に安置されていました。

 森村芭蕉も、ここを参拝し、その弘智法印ミイラ像を前にして、凄まじい霊感を覚えたようで、おそらく、芭蕉も同じように感じたのではないかと推察されています。

 カメラを持っていたが、それで法印像を撮影することはできなかったと述懐されていました。

 弘智法印は、その死後においても肉体をもって、おのれの存在や、思想や、教えなどを遺そうとしたのであり、森村芭蕉は、それを「志の永久保存」と表現していました。

 松尾芭蕉も、森村芭蕉が感じたように、ここでの印象は何も筆に残さずに、この地を去ったようです。

 冬濤(ふゆなみ?)や 即身仏の外にあり

 これは、森村芭蕉が詠まれた句です。

 おそらく、この西生寺から、日本海を一望しながら、弘智法印の志の外においては、今も荒波が押し寄せていることが印象深かったからでしょう。

 この志を、現代の鮒侍(ふなざむらい)たちは、どう受け留めるのでしょうか?

 かれらも、即身仏の外にありますね(つづく)。
 
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ハコネウツギ(前庭)