自信形成問題(1)

 今回の一連の論文化を進めていくなかで、いくつかの新たな究明がありました。

 その遭遇を、そこはかとなく嬉しく思っていますが、これは、「犬も歩けば棒に当たる」の諺の通りのことでした。

 人が自信を持つようになるとは、どのようなことなのか?

 この問題に関しても、重要なヒントが得られたような気がしています。

 その自信形成因は、何を成したか、何を得たか、という実績や知識よりも、何をめざしたかという「動機」のなかにあるのではないか、このような見解に出会ったことでした。

 たとえば、高専生に関しては、「即戦力になる」ということを堂々と主張する方が一部にいます。

 なぜ、そのような表現を用いるのか、その真意を尋ねたことがありましたが、その論者は、その議論が始まってすぐに沈黙してしまいました。

 そのことから、そのことをあまり深く考えていなかったことが判明しました。

 そこで、それ以降は、自分で、この問題を次のように究明しました。

 これには、「『即戦』力」と「『即』戦力」という2つの意味に分けることができます。

 前者は、ただちに前線で戦う力を有している、そして後者は、すぐに戦力にはなる可能性があるが、どのように戦うのかは必ずしも明確ではない、と考えられます。

 高専の卒業生が、前者に該当するのであれば、それにふさわしい力が養成されていなければなりません。

 そこで、何に対して「即戦」するのかが重要な問題になります。

 戦うという行為には、必ず、相手が存在します。

 戦う相手、それは具体的には、他の会社の技術者、あるいは、開発された技術といってよいでしょう。

 それらと戦って打ち勝つ能力を高専生が有しているのか、そのことが問題になります。

 長い間、高専の卒業生を観てきましたが、そこまでの力を兼ね備えた学生は、ほとんどいませんでした。

 この結果に照らせば、高専卒業生は、「『即戦』力」ではなく、「『即』戦力」に該当する可能性があります。

「『即』戦力」とは

 たしかに、高専を卒業して入社してきた社員は、若いとはいえど「戦力」の一員と考えることはできます。

 しかし、それが「『即』戦力」なることができるかどうかは、その戦い方や、その社員の教育方法、彼ら、彼女らの基本的資質に依存することです。

 そして、さらに重要なことは、その新入社員が、高専時代に、「『即』戦力」として戦った経験があるか、という問題に帰結します。

 その経験に乏しい卒業生は、「即」戦力になることはできず、その養成が必要になりますので「即」の戦力化は、即困難となるでしょう。

 ここまで来て、この問題が、やや明らかになってきましたね。

 すなわち、高専卒業生が、「『即』戦力」を有するかどうかは、それを高専時代において経験し、鍛錬しているかどうかで決まる問題であり、そのことを抜きにして、即戦力論を唱えることは不可能なことなのです。

 かつて、高専教育の目標において、「中堅技術者の養成」、「大学に準ずる教育」が掲げられていましたが、それが安易で矛盾の多い目標だったことから、自ら、それを取り下げることになりました。

 また、創造的技術者を養成するという目標を掲げたものの、それを自ら正しく説明できないという現象も発生しました。

 おそらく、この「即戦力」論も、その類に近いものではないかと思われますが、どうでしょうか?

 そこで、次回においては、高専生が「『即』戦力」をどのように身につけていくのかについて、より深く分け入っていくことにしましょう(つづく)。



saru-55
ハコネウツギと百日紅(前庭)