酒田

 芭蕉は、奥の細道のクライマックスとなった東北横断を済ませ、その第二コースの終着地である酒田に到着し、ここで弟子たちとの句会も和やかに開催し、8日という長逗留を行いました。

 酒田は、東北地方最大の商人たちの街であり、北海道から京や江戸に物資を運ぶ船便が東回りと西回りの2つがありました。

 このうち、後者の船が「北前船」と呼ばれていました。

 また、東回りの船は、日本列島を北上する黒潮に逆らって運航するために、かえって江戸までの距離は短いものの時間を要してしまったので北前船の方が船賃が安く、早く運航できて便利でした。

 北海道産の食物や物資を、まず酒田に降ろし、酒田からは、尾花沢から最上川を流下して紅粉が積み込まれ、それが瀬戸内海経由で、京、大阪で珍重されて高価な商いが行われていました。

 名ドラマ「おしん」が活躍したのも酒田であり、商人気質に富み、役人たちよりも、三十六人家の廻船問屋や廻船宿たちが、酒田の政治と商売を取り仕切っていたのでした。

 自営、自律、自由、この「おしん」のビジネス精神は、酒田でこそ養われたものであり、それを物語として描いた橋田寿賀子の慧眼も素晴らしいものでした。

 北海道から大阪までを北前船で一往復することによる利益は、一千両(6000万円~1億円)といわれ、北前船は、海上の総合商社といわれてもよい活気を有していました。

 このビジネスと商人たちの様子は、15~17世紀のフィレンチェやミラノの商人都市の様子とよく似ていて、その文化においても繁盛したのでした。

 井原西鶴の「日本永代蔵」においては、「北の国一番の米商人」として鐙屋が紹介されています。

 また、日本一の大地主となった本間家も、この北前船で米、藍、紅花を京や大阪に運び、その帰りには、雛人形や京友禅を買って東北地方に普及させました。

 「紅一升金一升」といわれるほどに、紅粉は貴重品であり、米、酒とともに巨大な富を生んだ商品でした。

 芭蕉は、この本間家に滞在したようで、直筆の達筆な文書を遺しています。

 同じように、ここを訪れた森村芭蕉は、この本間邸に興味を寄せられています。

 ここは、武家屋敷と商人屋敷が接合されて建築されており、普段は、後者において生活がなされたそうです。

 ここを見学された森村芭蕉は、その当家の居間が、一番奥の日の当たらない、狭い部屋だったことに驚きます。

 日本一の大地主であっても、普段は、この部屋で質素倹約をしていたことに一入の感慨を覚えられていました。

象潟(きさがた)

 この酒田で、すっかり安堵された芭蕉らは、酒田から約39㎞北にある、憧れの地である象潟(きさがた)を訪れています。

 象潟は、松島と並ぶ海の名勝地であり、芭蕉が尊敬して止まない能因法師が約三年間隠れ住んでいた先能因島がありました。

 象潟(きさがた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花

 また、ここは「九十九島」とも呼ばれていたそうです。

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隆起する前の象潟

 長崎にも同名の風光明媚な島々があり、子供のころには、その「九十九島せんべい」をよく食べていました。

 芭蕉は、ここを訪れ、少し前に観てきた松島を男性的と考え、この象潟の九十九島の様子を女性的と感じました。

 折から、雨に咽(むせ)ぶ、島々の様子や、そこに鮮やかに咲いていた「ねぶの花」を眺めて、中国の絶世美人である「西施(せいし)」のことを思い浮かばれたようです。

 西施は越の王の愛妾であり、その美貌のあまり、越のライバルであった呉の王に差し出され、その王は、彼女を溺愛したあまり、呉を滅びてしまったという逸話があります。

 ここには、雨の九十九島、ねぶの花と重なる女性を脳裏に、芭蕉の遊び心を連想させる「安らぎ」がありますね。

 一方、森村芭蕉が、この地を訪れた時の情景は、まるで違っていました。

 それは、芭蕉が、この地を訪れた115年後の1804年6月4日に出羽大地震が起こり、この象潟が隆起して陸地になってしまったからでした。

 こうなってしまっては、九十九島は存在せず、陸地に小山があるという平凡な景色に変わっていました。

 これを森村芭蕉は、次のように詠まれています。

 象潟や 海枯(か)る後の 島嘆き

 これは、ミスユニバースのコンテストにたとえ、水着もなくなり、化粧も落ちてしまった島(女性)が嘆いていると思われていたようです。

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西施とネムの花(HP中国語スプリクトおよび山川草木図鑑HPより引用)

 これからは、東北地方を南下、第三コースに分け入っていくことになりました(つづく)。