追悼・久松俊一先生(24)
久松先生、本稿も24回目、なかなかのロングランになっています。
それだけ、ご存命の際には、先生が大切な存在だったのではないかと思います。
折しも、「21世紀における高専教育改革の展望」の第一報から五報目までを認めていましたので、その都度、先生との理論的切磋琢磨したことを思い出していました。
一般科目と専門科目の違いがありましたが、それが互いに都合がよかったのかもしれませんが、それぞれの固有の突出が、高専のアイデンティティーの探究に適合していたように思われます。
そして、報告しなければならないと思っていることは、この一連の論文化によって、いくつもの新たな視点が得られてきたことです。
これらについては、私にとって小さくない喜びとなりましたが、それらを先生とより突っ込んで議論できたら、さらに良かったのではないかと思いました。
その一つが、あなたのいう高専のアイデンティティーに関することですが、それを私の視点から、その高専史を振り返って5つの独創的長所と理解し直し、その形成過程を探究しました。
前記事においては、その3番目を考察しましたので、本日は、その4を振り返ることにしましょう。
高専の独創的長所4
(4)教育と研究の対立概念の変化
私がT高専に助手として赴任したのは、1976年でした。
T高専は、その2年前に創立されていましたので、3年生が最上級生でした。
その1年後に講師に昇格し、2年分(3年生と4年生)の授業を受け持たされました。
また、私の専門であった水理研究室の実験室づくりも始まりました。
赴任前の大学の研究室においては、これと異なる分野の研究をしていましたので、その授業と実験室づくりは、結構大変なものでした。
何もない、実験室に一人で座り込んで、さて、どうしようかとよく考え込んでいました。
そこで、私が選んだのは、友人に紹介していただいて、京都大学防災研究所のお二人にU先生のところに行って、その実験室を見学することでした。
お二人のU先生は、懇切丁寧にご教示くださり、その実験室づくりと研究手法を大いに学ぶことができました。
私が、大学院の修士時代に研究していた乱流という研究テーマに関して、このお二人の先生方は、はるか先の研究をなされていました。
この視察が決め手となり、その乱流研究を主体にした実験づくりが始まりました。
そして、その実験室の真ん中に、深さ15㎝、幅81㎝、長さ10mの総アクリル製水路を設置しました。
その折、地元のアクリル加工会社のNさんから指導を受けました。
かれが、いうには、この水路は、1年に数㎝伸び縮みするから、それを考慮して設計するのがよいことを教えていただきました。
流れ方向には、伸び縮みが可能にし、台の上に水路を置くだけでよいといわれ、それが可能な設計を行いました。
結局、この設計が功を奏し、この水路は約30年間も活用されることになり、学会では、ちょっと有名な水路になりました。
また、この水路を用いた実験によって、私を含めて3人もの学位取得が実現されました。
日夜、これと慣れ親しみ、数々のドラマを生み出した水路でした。
やがて卒業研究性がやってきて、かれらと一緒に、この水路での実験を繰り返し、その成果が学会発表へと結びついていきました。
当時の私は、未熟で、研究実績もなく、学会発表を毎年できるのかについても不安を覚えていましたので、その時の私の高専教員としての生命線は、卒業研究生と共に実験に励み、そこで共に成長しながら成果を得ることにありました。
対立の構造
しかし、一方で、学校全体としての現実は教育に関することでしか動いていませんでしたので、そのような研究は、あまりよく認知されていませんでした。
なかには、高専は教育機関であるから、研究は必要ない、なぜ、研究に勤しむのかという暴論までがありました。
また、教授への昇格は年功序列であり、それでも何かが必要だとされて、学内の研究紀要への論文三篇が、その昇格の目途になっていました。
学位取得は夢のまた夢であり、当時は、それを取得した教員は校長一人のみでした。
それゆえ、研究を大切だと思って取り組む若手教員は、分断され、その一部からは、教育熱心ではない、教育をせずに研究ばかりをしていると非難されやすかったのです。
この避難や攻撃は、結構しつこくなされ、陰湿さを有していましたので、それに負けて萎えてしまい、若手であっても研究を諦めてしまう方も少なくありませんでした。
一方で、卒業研究生と一緒になって研究を行い、共に成長していくことを選んだ若手教員にとっては、この分断と攻撃を跳ね返していくことが求められました。
そこに、高専固有の「教育と研究の対立」が発生する「土壌」がありました。
この対立には、外的なものと内的なものの2つの側面がありました。
前者は、高専全体が教育でしか運営されていませんでしたので、そこでの研究が、一部のもの、あるいは個人的なものと理解されやすかったことでした。
それゆえに、教員同士における分断がなされ、孤立し、さらには攻撃を受けて、ヘタレ込んでしまうという現象まで発生していたのでした。
また、後者に関しては、17時までは教育、17時からは研究と分けてはいたものの、その精神の内部においては、その対立が発生して苦闘する日々が続いていたのでした。
学生指導に明け暮れていれば、研究する時間が無くなってしまう、逆に研究ばかりをやっていると教育指導が疎かになってしまう、このような葛藤が、その対立の中で常に生まれていたのでした。
そして、この対立を気にし、その苦闘を避けるようになると、ますます、その研究が困難になっていったのでした。
しばらくして、組合の教研集会においても、この教育と研究の対立問題が真剣に議論され、私は積極的に参加するようになりました。
「苦闘しているのは、私だけではない、全国に同じ悩みを持つ仲間がいる」
これが、一つの重要な励ましにもなっていきました。
また、この問題に関する私にとっての重要な出来事は、卒業研究性が、私の学位論文に結びつく重要な発見をしてくださたことです。
それをきっかけにして、私の研究は発展し、学会発表、論文化、学位取得へと進んでいきました。
いわば、高専の卒業研究という教育行為が、私の研究に結びつき、その意味で、その教育と研究の対立は、より上位の「統一」へと向かっていったのです。
こうなってくると、その苦闘は、教育と研究の両方における成果を生み出したことによって小さくない喜びへと変化していったのでした。
今でもよく思い出しますが、私の学位授与式の日と全専協(教職員組合)の教研集会が別府市で開催された日が重なっていました。
私は、役員になっていましたので、「申し訳ありませんが、ちょっと半日ほど出かけてきますので留守をします」といってQ大学に向かいました。
そして、その会場に赴くと、私の前の席にA高専のS先生が座られていました(後に、親しく交流するS先生でしたが、その時は声をかけることを控えました)。
再び、別府に戻って、その証書を役員のみなさんに見せると、かれらは心から喜んでくださいました。
そんなこともあり、この対立は解消できる、教育と研究は統一できる、そこに「重要な何か」があるはずだと確信するようになりました。
それは、実践的技術教育、創造的技術教育と創造的研究が、密接に結びついていることであり、ここに高専における独創的研究の真髄が隠されているのではないかというヒントをえたことでした。
その後、高専には、専攻科が設置され、そこではより厳しい研究業績の審査がなされるようになりました。
専攻科生の特別研究を成功させるために、より最新の、より深い研究成果が求められるようになっていったからでした。
同時に、この変化は、かつての一部にあった「教育第一主義」派の声を低減させることにも役立ちました。
それまでの教育と研究の対立が、より高次の問題において、それをいかに統一させるか、そして、それによって、いかに高専にふさわしい実践的研究を行い、それを教育に実践的に反映させる方法が探究されるようになってきたのです。
久松先生、苦悩の中から喜びが生まれる、どこかの世界的作曲家の交響曲のようですね。
天国における、この響きは、いかがですか?(つづく)。
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