老いと微笑みの哲学(4)

 昨年末から、執筆を開始した論文の第六報の草稿を書き終えたところですが、今回は、その執筆速度を減じて、やや余裕を持ちながら筆を進めてきました。

 そのせいでしょうか?

 いつもは、この執筆の影響で本ブログ記事が大きく滞ることになっていましたが、今回は、それを起こさないようにバランスを取って書き進んでいます。

 まずは、それが可能であることによって密かに微笑んでいる自分がいます。

 一応の投稿目標は、8月31日としていましたが、おそらく今の調子で進めば、それが来月の第一週までに可能になるのではないかと思います。

 また、第六報の執筆にあたり、その七報以後の執筆予定を検討しましたが、当初の第七報までで終了の予定を変更して、もう一報追加して第八報までとすることを決定しました。

 その追加報は、高専発のマイクロバブル技術(1)に加えて(2)を執筆することにしたからでした。

 やはり、マイクロバブル技術に関する執筆は、一報のみでは収まらず、追加が必要ではないかと思っていましたが、実際に書き進めるにしたがって、その選択の正しさが明確になってきました。

 また、これまでは「高専発」という視点を踏まえての論考をあまりしてこなかったことから、その重要性とおもしろさを改めて認識することができて、これについても密かにほくそ笑んでいます。

 未だ草稿段階ですので、論理が一貫していない、余分な内容が紛れ込んでいる、訴えどころが今一明確でない、起承転結の流れができていない、結論がきちんと記されていないなどの問題があり、これから、それらを全面的に見直し、仕上げていくことになります。

 そのために、おそらく、数回の推敲を繰り返していくことになるでしょうが、これは、これまでにおいても行ってきた作業なので、そんなに難しい作業ではありません。

 あたかも、山の峰に到達して、これから、歩を速めて下りを楽しむといった心境によく似ています。

 前記事において、作家井上ひさしさんの、NHK100年インタビューにおける、次の名言を引用しました。

 「笑いとは、人間が作るしかないもの。それは、一人ではできない。人と関わって、お互いに共有しないと意味がないものでもある」

 たしかに、論文書きも、人間が行うことですが、その執筆は、一人だけの経験においてできるものではなく、そしてそれを書き上げたものが、人と関わって、お互いに共有しないと意味のないものであり、かれのいう通りです。

青い山

 それぞれを山の峰にたとえますと、これまでに、5つの峰を越え、そして今は、6つ目の峰の途上にあります。

 それぞれの峰には、違った風景があり、そこに到達する度に、その風光明媚さに驚いて新たな思いを抱いてきました。

 これは、種田山頭火の「分け入っても 分け入っても 青い山」の心境によく似ています。

 青い山の景色に見惚れて、目の先にある青い山に分け入り、再び青い山を観ることになる、

 そして、そこに自ら微笑んでいる姿を発見する、

 それが、次の青い山に分け入る勇気を呼び起こす、

 このようなことが起こっているのではないでしょうか?

 この草稿を仕上げれば、目の前の青い山は2つ、この踏破には、おそらく2カ月もあれば十分でしょう。

 当初の予定では、2年を要するのではないかと推測していましたが、それが半分で済むことになりそうで、これも予想外のことでした。

 そして、その2つの青い山の後ろには、どんな青い山が観えてくるのでしょうか?

 そう考えると、なんだか、自然に微笑が湧いてきそうですね。

 その前に、この晩夏と共に、足下の青い山を乗り切っていきましょう(つづく)。

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梅園の里からの遠望