道半ばに到達か
昨夜夜遅く、懸案の論文の第四報の最終推敲を終え、無事、学会への投稿を済ませました。
前回の第三報の投稿日は、5月30日でした。
それから約1週間は休息していましたので、第四報の本格的な執筆は、実質約2週間だったようです。
徐々に執筆を重ねていくうちに、やや加速し始めたようです。
今回は、三報までの8ページ、14000文字では収まらず、10ページ、18859文字となりました。
それは、その今回の報が、それまでのほぼ「仕上げ」に相当していたからでした。
その流れを、順に眺めてみましょう。
21世紀における高専教育改革の展望(Ⅰ)
ー高専における実践的技術教育の足場ー
21世紀における高専教育改革の展望(Ⅱ)
ー高専における独創的長所の形成過程ー
21世紀における高専教育改革の展望(Ⅲ)
ー創造的技術教育の特徴と限界ー
21世紀における高専教育改革の展望(Ⅳ)
ーものづくり精神を土台にした探究・開発技術教育ー
すでに、このタイトルだけでも、高専における過去、現在、そして、これからの技術教育のあり方を朧気ながら理解できるのではないでしょうか。
高専は、約62年余の小史を有していますが、いくつもの困難と矛盾を抱えながらも、それらと真正面から向き合い、いわば闘うことによって、その時代の変遷とともに粘り強く、短所を長所に変換させてきたのではないかと思います。
そのトンネルを掘りながら、それこそ、青の洞門の禅海和尚の気持ちを思い浮かべていました。
高専は、非常に小さな高等教育機関です。
毎年、約1万人が卒業生、修了生として輩出しています。
当初は、高校、大学とは異なる、いわゆる複線型の異端として外部から見られることが多く、その内部では、初めての技術者教育を行う機関として、その依拠するところが解らず、あいまいなままでスタートしました。
しかし、そのなかで、さまざまな試行錯誤と検証が、それこそ地を這うように粘り強くなされるようになり、そこに独創的な長所を形成するようになっていきました。
真面目に、力強く走っていたら、いつのまにか、先頭を走っていた、このようなことが、偶にありますが、その光景を高専において観てみた、それが、この一連の論文化でしだいに明らかになってきたようです。
これは、36年間もお世話になった高専ですから、なにか恩返しの方法はないかと考えていましたので、どうやら、未だ道半ばですが、これがその一つになりそうだと思い、なんとなく、そのことに一つの満足を覚え始めています。
なぜなら、これまでの論究によって、新たに発見したことがいくつもあったからであり、いわば、それを歴史の谷間に埋まったままにせずに済んだからでした。
世間では、「禍を転じて福となす」とか、「不利を十二分の有利に変える」という言葉がありますが、それが、高専という小さな教育機関で起こってきたことを確かめ、それらを克明に認めることができ始めていると思えるようになりました。
それは、次の言葉として象徴的に表すことができるのではないかと思います。
「小さくても、少なくても、光り輝く高専」
ここに、細やかではありますが、歴史的に素敵なドラマ性を感じています。
そのことを、歴史上に偉大な人物として登場してきた5人の方々を取り上げ、その比較と検証を行ってきました。
その結果、その生い立ちや幼少期、青年期の姿が、高専生と非常によく似ていることを見出しました。
その共通項が、「創造力」でした。
この5人とは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、スティーブ・ジョブズ、高野長英、井深大、本田宗一郎でした。
かれらは、どのようにして、創造力を開発していったのか?
そこに、高専生との類似性があるのか?
さらには、創造力の開発が、かれらのように、高専生においても可能なのか、その必要条件とは何なのか?
すでに高専生が、立派に実践していることと、どう関係しているのか?
このような疑問が湧いてきて、その度に、おもしろさと深さを覚えるようになりました。
せっかく、長い時間と少なくない労力を用いて、長文を認めてきたのですから、そこには重要な何かが生まれてくるのではないかと推察していましたが、今、この道半ばまでやってきてみると、それは、予想以上のことだったと、密かにほくそ笑んでいます。
ここに女神がいたとすれば、きっとやさしく微笑んでくれているのではないでしょうか。
なにはともあれ、ここまでたどり着いたことを密かにほくそ笑むために、今夜は、やや上等のワインを少しいただくことにしましょう。
そろそろ、その執筆の疲れが、一挙に出てくるころなので、それを癒すにも、きっと役立つことでしょう。
これからは、後半戦に突入、ますます、長英先生の学則である、本記事のタイトルの極意を噛みしめる必要がありますね。
次回は、第五報について述べる予定ですが、そのころは暑い真夏を迎えているかもしれませんね(つづく)。
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