追悼・久松俊一先生(16)
   前記事からの続きです。  
 
 いよいよ、この連載も終わりに近づいてきましたね。

 想えば、この半年間、どういうわけか、高専に関する論文化の作業に没頭してきました。

 お世話になった恩返し、あるいは、36年間の仕事の総まとめ、さらには、混迷と困難、矛盾を深めるばかりの世界と日本の情勢を憂いてのことか、そして、久松先生のことを偲んでのことか、この間のお付き合い、ありがとうございました。

 おかげで、先生の追悼文を認めたことで、何かが転がり始めたようで、私になりには脱兎のごとく、その論文化が進みました。

 私の長い人生においても、このような集中的執筆は初めてのことで、新たな自分自身の発見に新鮮さを覚えています。

 さて、その最後の締めくくりとして、以下の追悼文に関係する部分に分け入ることにしましょう。

 第四は,いつもスーツにネクタイの姿で端正でダンディであり、話好き、人好き、酒好きでした.

最後に,上述の『改革プラン』に示された第三の提言に触れておきましょう.高専ネットワークの形成,日本高専学会の誕生と発展は,高専と高専教育の揺るがない発展に小さくない貢献を果たしてきました.それは,高専が築いてきた長所を最高度に生かした,そして必然の帰結としての「高専大学」です.  

この実現が互いの「宿題」として残りましたね.

どうか,来世においてもご考究を念願いたします.

ダンディ久松

 いつもスーツにネクタイ、これが先生のスタイルでした。

 しかし、車はなぜか、ホンダの小型車フィットを運転されていて、あるとき、木更津に面会に行った際に、その車に同乗して木更津名物のイワシづくし料理をご馳走してくださったことがありました。

 その先生と同僚の五十嵐譲介先生、私の3人の若かりし頃の写真を再度掲載しておきましょう。

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                                          左から、五十嵐先生、私、久松先生


 このように、久松先生は、スーツ姿で、このタバコの持ち方にも見覚えがありますね。

 たしか、この時初めて五十嵐先生を紹介していただいて、かなり長く話し込んだことを記憶しています。

 この五十嵐先生は、何代目かの松尾芭蕉の後継者であり、その後継は、代々、口伝えになされてきたそうです。

 その五十嵐線先生が、正座し、かしこまって歓談されている様子がおもしろいですね。

 久松先生は、余裕綽々で、その様子を眺めておられます。

 その後、五十嵐先生とは、長く付き合うことができました。

 かれは、国語の先生でした。

 組合では、いつも鋭く明解な主張をなされていました。

 さらに、「たたら」製鉄技術での日本刀づくり、蕎麦打ちの名人であり、ともに現物を味わうことができました。

 また、本ブログの執筆を促した先生でもあり、忘れることができない貴重な人物でした。

 また、日本高専学会においては、私の会長時代に、学会誌の編集委員長をなさっておられ、よく議論を交わした仲でした。

 この時に、今の論文特集号を発行するようになり、それを今の論文審査委員会が受け持つことになりました。

 久松先生は、この初代委員長でした。


      第二提言「地域に根ざした高専の実現と『日本高専』への発展」

 1994年に、全大教高専改革プロジェクトチームから発行された『私たちの高専改革プラン』における三提言のうちの第一は、日本高専学会を創設することでした。

 これについては、これまでに詳しく解説してきましたので、次の第二提言について触れておきましょう。

 この提言は、次のように示されています。

 「高専が地域に根ざしてさまざまな協力共同を行なうことは、単なる地域貢献に留まらず、やがてはそれが高専教育の充実・発展に少なからずの効果をもたらし得る。
 その意味で、地域に根ざした高専の実現は、きわめて重要な今日的課題である。
 この高専づくりとそのネットワークを中心にした交流は、「日本高専」への発展に導かれる。
 高専の特徴の一つは、その共通性にあり、それを生かした高機能のネットワーク事業を発展させる」

 ここでのキー・ワードは、「地域に根ざした高専づくり」と「日本高専ネットワーク」の2つです。

 高専が地域に積極的に出ていって、地域のみなさんから信頼され、同時に志願者を得ること、それを日本全体に拡大して、ネットワークで結び合うという、じつに壮大なスケールを有した提言でした。

 それが、その後の20年余の間に、どのように充実・発展してきたのか、次回はその中身に分け入ることにしましょう(つづく)。

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紫陽花(前庭)