追悼・久松俊一先生(7)
 
 私の人選における選択問題が,一気に浮上してきて,そのなかから,ドイツ・アメリカへの海外留学を選んだことは大正解でした.

 そのことが,私や家族の帰国後の生き方に,非常によい反映をもたらしました.

 いずれ,そのことを紹介する機会があれば披露したいと思いますが,それを一言でいえば,マイクロバブルの研究により一層打ち込むことができるようになり,それが契機となって,持続的発展が得られたことでした.

 さて,前記事において示した私の追悼文の第五節の部分を再録します.

 5. 西田校長との連携

当時,久松先生は,木更津高専の第三代校長の西田亀久夫先生(19791985年)のことをよく話題にされていました.それは,この西田校長が,一般科目における教科研究を全面的に支援され,その実績づくりをめざしいたからでした.これに呼応して,久松先生を始めとする一般科目の先生方が協力するという教育的団結が形成されたのでした.その結果,この団結による教育実践の威力が,しだいに光彩を放つようになっていきました.その連携には,必然的な意味と有効性が内包されていました.

 それは,当時の国立専門学校協会(「国専協」)の上層部が,高専を名称変更して「専科大学」と呼ぶことにして,実質の大学化をめざしたことが,結局頓挫してしまったことに端を発していました.海部,藤尾という二人の文部大臣までもが,丁寧にも記者会見をして,その変更を行うことを明らかにしたのですが,そこには,お粗末な無理がありました.その法律改正をしようと,その変更問題を内閣法制局に尋ね「大学でないものを大学とは呼べない」といわれ,その強行ができずに,脆くも頓挫したのでした.

結果的に,この騒動は,高専全体を巻き込むことになり,入学式で「来年からは,高専が専科大学になります」と校長が出現し,看板や封筒を書き換えることも起こりました.

しかし,この騒動は,その後の高専に小さくない影響を与えました.その結末が余程罰が悪かったのでしょうか,ほとんど何も議論せずに,こそっと高専に専攻科を設置すると,その後の方針に一行入れたことが,今の全校専攻科設置に結びつきました.

また,それによって高専をどうしていくのかというビジョンの喪失が起こり,その混迷のなかから,「新たな高専のアイデンティティーを探し出すことにしか未来はない」という考えが芽生えることになりました.

その先頭に立ったのが,当時の国専協の上層部にいた西田校長であり,その意向によって,自校における一般科目の教科研究が進行していくことになったのでした.もちろん,この指向に,久松先生を始め,当時の有力な教員が賛同を示し,学校を上げての研究が本格的に発展していくことになりました.

 ここで重要なことは,校長と教員が,互いの立場と主旨をよく理解し合って連携し,真摯に教育研究を遂行していけば,素晴らしい新たな本物の成果を産み出せるということでした.この時点で,この連携により成果は,単に木更津高専内に留まるのではなく,その境を超えて高専全体に伝搬していきました.日本高専学会は,その発信地の一つとなり,そこでの発表と討議が,その質的発展に寄与したのでした.


 久松先生と共に,日本高専学会の平会員としての活動が始まりました.

 8月末の年会総会,2月のシンポジウムの折に,久松先生は必ず参加されていましたので,それらの機会において交流を深めることができました.

 その折に,久松先生は,当時の西田校長のことによく言及されていました.

 今回の日本高専学会の山下会長の追悼文において紹介されていますが,久松先生は,西田校長の時に木更津高専に採用されたそうなので,その時から,西田校長との交流が始まったのだと思います.

 木更津高専の第三代西田校長の任期は,上述のように1979年から1985年でした.

 日本では,オイルショックが発生して,日本経済の高度成長が終わりを告げていました.

 また,高専では,創立後約20年を迎えて,高専教育の見直しがなされていました.

 国立高等専門学校協会(「国専協」)によって,その結果が1981年に『高専の振興方策』として発表されました.

 これには,当時の高専にとって,次の2つの出来事がありました.

 ①創立以来の3つの教育目標であった「実践的技術者教育」,「中堅技術者の養成」,「大学に準ずる(工学教育)」のうち,後ろ二者を削除した.代わりに「豊かな人間性」という新たな目標が加えられた.

 ②カリキュラムについては大綱化と称して,細部は,各高専で決めてよいとした.

 ①については,実践的技術者教育という1枚看板が残ったことから,当然のことながら,高専は何をすべきなのか,そのアイデンティティーはどこにあるのか,さらには,高専の役割は終わってしまったのではないか,これから高専は,どうしていけばよいのか,などの意見が出され,大議論が起こったのでした.

 西田校長も,その中心人物の一人でしたので,その議論が木更津高専においても熱くなされたのでした.

 そして,この議論の結果が②へと結びついていきました.

 西田校長のリーダーシップの下で,木更津高専におけるカリキュラムの自主的研究が要請され,一般科目においては,久松俊一先生も,その中心教員の一人として参加されました.

 おそらく,この件で,西田校長と久松先生はかなり突っ込んだ討議をなされ,それによって一般科目の先生方が刺激されたのではないでしょうか.

 一方,国専協においては,新たな会長,副会長が選出され,それらの方々のイニシアチブによって高専を「専科大学」へと「名称変更」しようという動きが出てきていました.

 これは,少子化,産業構造の急激な変化,大学進学率の向上に伴って.高専は,その変化に追従できなくなるという,ある意味での「危機論」を根拠にして大学化を目指すという指向でした.

 しかし,この指向は,根本的な弱点を有していました.

 それは,第一に,名称変更のみで,すなわち,高専の設置基準を改定せずに大学にしようとしたことで,法律的に無理があったことを覆い隠していたことでした.

 第二に,高専は教育機関であり,研究機関ではないということを維持したまま,大学化しようとしたことでした.

 周知のように,大学は,教育機関であり,研究機関でもあるということが,その設置基準に定められています.

 大学という名称に変更するのであれば,大学と同じく,教育研究機関と法律改正しなけらばならなかったにもかかわらず,安易に名前を変えるだけだといって,二人の文部大臣までもが記者会見を行ったのでした.

 第三に,大学化において必須の重要な事項として,教授会自治の問題がありました.

 これを認めたくない,すなわち,校長先決体制を維持しながら,教授会自治を認めないままに大学への名称変更をしようとしたのです.

 この動きは,その後半において,内閣法制局から「大学でないものを大学とは呼べない」といわれて「万事休す」になりましたが,全国の高専においては,卒業式で「来年からは,高専ではなく専科大学になります」という校長が出現し,さらには,封筒の書き換え,新たな看板づくりまで行った高専もありました.

 この頓挫が明らかになり,騒動という実態が明らかになった時点で,国専協のなかでは,教授会の自治を認めて,高専を研究機関としても認めてもよいのではないか,そう改定すれば,内閣法制局も認めてくれるのではないか,という意見も出てきて,さらに紛糾することになりましたが,それはすでに「後の祭り」でしかありませんでした.

 結局のところは,思い付きの危機論によって,大騒動が展開されて頓挫しただけのことだったのです.

 かれらの唱えた危機論のうち,その指摘の通りになったのは,少子化傾向が進展したことのみでした.

 しかし,これについては,高専が地方都市に立地されていて,しかも志願者を集めようと高専自身が努力したこともあって,わずかな学科において定員割れが起こったことに留まることができました.

 また,産業構造の急激な変化については,その通りになり,黄金の80年代を迎えましたが,それによって高専が淘汰されるのではなく,逆に企業の求人倍率が急上昇して売り手市場の極地状態になっていきました.

 さらに,大学進学率は,徐々に向上していったのですが,かれらのいう急上昇には至りませんでした.

 そして,皮肉なことに,高専生の大学編入率が向上していったのでした.

  「指向」の違い

 この専科大学騒動と,木更津高専における久松先生らを中心にしたカリキュラムと授業改革のための地道な自主的研究は,徐々に発展し,いくつも優れた教育的創造力が発揮されるようになりました.

 すなわち,上記の騒動とは全く正反対の高専教育における自主的研究の流れが形成され始めたのでした.

 この成果は,『こんな授業をやってみたい』という単行本にまとめられました.

 そして,この自主的研究の流れは,徐々に拡大,進化して,独特の一般科目教員による「特別研究(3年生)」という,いわば一般科目卒業研究へと発展していったのでした.

 この成果もまた,『探究心に火をつける』という単行本にまとめられ,数々の素晴らしい出来事が紹介されています.

 上記の大騒動の「指向」と,この木更津「特研」の「指向」は,大きく異なっています.

 前者は,高専史において忘れ去られたものであり,後者は,今も尚発展し続けて輝きを増しています.

 上記の追悼文において,私は,西田校長と久松先生らの協力協同について,次のように期しています.

 「ここで重要なことは,校長と教員が,互いの立場と主旨をよく理解し合って連携し,真摯に教育研究を遂行していけば,素晴らしい新たな本物の成果を産み出せるということでした」

 この教訓は,全国の高専において当てはまることです.

 久松先生,当時のあなたは,水を得た魚のように生き生きと,そしてここちよく泳いでおられました.

 木更津高専に赴任して本当によかったですね.

 つくづく,そうおもいます(つづく)。

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 朝の森と月(我が家から歩いて約20歩)