記事の更新ができない
毎日の記事の更新ができずに申し訳なく思っています。
本日、5月の初めから取り組んでいた一連の論文の第三報の本文をほぼ書き終えました。
残るは、結論と和英の要約、参考文献などとなりました。
今回は、前の第一報、二報に続くもので、三部作の最後の論文化と思って執筆し始めましたが、どうも、そのようにはなりませんでした。
たしかに、この第三報の主要な内容は、それまでの2つの論文の仕上げといいましょうか、あるいは帰結に近いものという性格の濃いものになりましたが、それを最後の章において執筆しようと思っていました。
しかし、実際には、そうならず、その章の執筆に要する紙数が圧倒的に足らなくなり、それを第四報に譲ることにしました。
また、今回も6ページで終わろうと全体構成を考えて執筆を始めましたが、それでは到底収まらず、8頁の約14000文字の論文となりました。
その論文の総合題目とサブ題目を下記に示しておきましょう。
21世紀における高専教育改革の展望(Ⅲ)
ー高専における創造的技術教育の特徴と限界ー
こうして第三報にまで執筆が及んでくると、その論文自体の筋立てができてきて、それに従っての執筆を行うというパターンになってきます。
この筋書きには、当初の予想とは異なる新しい内容が入ってきますので、それらを考慮していくという新たな論立てが観えてきます。
これこそ、執筆に伴っての創造が可能になったことを示すもので、これもまた、おもしろい展開ということができます。
そして、今回は、創造とは何かを、かなり突っ込んで考察しました。
そのために、かなりの本を読みこなしました。
そして、それを高専教育の教育目標にしたことに対しての問題点を洗い出し、そこに限界があることを示しました。
しかし、この指摘は、創造的な教育を探究していくこと、そのものを問題視したのではなく、その用語を用いて教育目標としたことに関しての問題点とその限界の指摘を行ったのでした。
そして、この限界は、いくつもの問題点を含みながらも、それが現実的には、小さくない発展を遂げてきたという長所を有していたのですが、それでもその発展が必然的にやってきて、次の新たな目標を明らかにし始めているということを指摘したのでした。
人や物の成長や発展は、その内部に問題点を含みながらも、それを徐々に解消しながら進んでいくものですので、そのことを実際の高専教育においても探究してみたのが、今回の執筆となったのではないかと思います。
今回は割と早く進んだ
今回の執筆開始は、5月の初めからでしたので、それまでの執筆速度の約2倍で進行してきました。
それだけ、調子が上がってきたのだと思います。
しかし、この論文書きには、かなりの集中力が必要なので、かなりの疲労も生まれます。
それでも若いころは、一気に徹夜して書いてしまうということを繰り返していましたが、今はもうそんな無茶なことはできません。
体調を考慮しながら、しかし集中力は絶やさずに、そして何よりも執筆活動に慣れることをめざしています。
しかし、このバランスが難しく、1)ブログの記事更新ができない、2)緑砦館で植物たちと触れ合う時間が無くなる、3)散歩や趣味の写真撮影ができなくなるなどの困った現象が起きてしまいます。
これらを要領よく熟しながら執筆活動を続けることができるとよいのですが、未だその達人の域には達していないようで俗人としての苦しみを味わっています。
それでも、合間を作っての読書は欠かさず続けています。
最近は、そのリラックスのための手塚治虫名作集を気に入ってよく読んでいます。
現在は、その3巻目を読んでいますが、これをよく手書きしたものだと感心しながら眺めています。
かつて、劇作家の井上ひさしさんが、演劇は、最後のシーンにおいて何をいうかを最初に考え出して、それが決まると、そのストーリーを書いていくことになるのだそうで、そうだから、最後のセリフが一番大切なんだと強調されていました。
この手塚マンガも、同じで、その物語の結論が最後のページに描かれています。
それが読者に強い影響を与えて、よいマンガか、そうでないかが決まるようです。
その意味においては、井上さんも手塚さんも、最後のセリフづくり、ページ作りにおいては天才的な表現力を持っておられたようですね。
胸がきゅんとなる感動、あっと言わせる驚き、そして胸に沁み入る悲しさ、これらが読者の心を震わせるのです。
最初は六篇のつもりが
この一連のシリーズの論文執筆が、ほぼ半ばまで進んできました。
当初は、六篇のつもりで開始したのですが、それが七編になり、これによって上手く進み始めました。
おそらく、この三篇の投稿を済ました時点において、そのまま進むか、それとも一つ増やして八篇にするのか、これを検討することになるのかもしれません。
さて、それはどうなるのか?
その時のお楽しみですね。
動き始めたら止まらない、しかし、それはどこかで止めなければならない。
きっと手塚治虫さんも、そのようなことを考えながらマンガを描き続けていたのでしょうか?
少々、そのことが気になり始めています(つづく)。
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