追悼・久松俊一先生(6)
前記事において示した私の追悼文の第四節の部分を再録します.
4. 共に日本高専学会の活動に参加
日本高専学会は,1995年8月1日に創設されました.この時,私はドイツ・アメリカに留学中であり,この栄えある設立総会に参加することができませんでした.
この日から約1か月後に,その誕生を知り,すぐに入会の申し込みをして平会員としての活動を始めました.
この年会総会の会場で久松先生と再会しました.
先生は,木更津高専の一般科目における「特別研究」の実践について研究発表をなされていました.
この成果に驚き,興味津々になりました.
当時,私の前職場であったT高専においては,「創造演習」という専門科目が全学科揃って開講されていましたので,同じ豊かな創造性と探究心を養う授業を,専門学科科ではなく,一般科目の先生が実施されていたことに,まず吃驚しました.
「これは,素晴らしい教育実践の実例ではないか!」と感激し,「これに注目して深く研究しよう」とおもいました.
ここから,先生との交流が始まりました.
この時の先生は,それこそ「我が意を得た」のようで,この科目を含めて高専における一般科目の在り方,望ましい高専生像,技術者教育における豊かな教養などについて,真剣に考究されていて,非常に印象深く感じました.
また,先生を通じて,多彩な木更津高専の教員のみなさんとも知り合うことになりました.そのなかには,松尾芭蕉の後継者にあたる五十嵐譲介(国語),数学における図化ソフトを開発されて世界的に有名になった山下哲(数学),アイデアに満ち溢れた実践力の豊かな栗本育三郎(電子制御),鶴岡高専から木更津高専に移られた共同研究者の加田謙一郎(国語)などの方々がおられました.
これらの方々とタッグを組んで,楽しく仕事をしながら,教育における難解な未知の課題を探究された姿には,強くて硬い筋金が形成されているように観えました.
たしか,1994年3月の木更津教研から帰ってきて夏頃のことだったと思いますが,当時のO校長から呼ばれました.
「先生は,海外留学の意向を持っておられたと聞いておりますが,今もその意向をお持ちですか?」
「はい,以前から,海外留学してみたいと思っていました.今年も,その意向調査がありましたが,どうしようかと迷っている間に,締め切りの期日が過ぎてしまいました」
「そうですか,締め切り期日の件は,何も問題はなく,今からでも間に合いますので,先生が希望されるのでしたら申請は可能ですよ」
こう,急に言われて,少々困ってしまいました.
海外留学の希望を内々に持っていたものの,その時点においては,その留学先が定まっていなかったこと,そして,当時の家庭の事情として母が入院中で,その病状がよくなかったことから,その心配もあって,「今は見送ろう」と思って,その申請を行わなかったのでした.
そして,人生とは不思議なもので,この時,私は次の進路問題を重なて抱えていたのでした.
その第1は,H国立大学において教授職の公募がなされていたので,O校長を通じてH大学の工学部長に,そこへの赴任が可能かを内々に尋ねていただきました.
そしたら,そのポストはすでに内定していたそうでしたが,その隣の講座の教授が,自分が6年後に退官するので,助教授のポストで赴任することは可能という打診がありました.
学会において,この教授と並んで発表をしていました.
これは,予想外の打診でしたのでO校長と協議をしましたが,当時の私は,高専の教授職に就いていましたので,降格しての赴任は難しいというと,O校長は,喜んで了解してくださいました.
私は行きたくない,かれは行かせたくなかったのでしょうか.
私は,赴任できないと丁重に断りました.代わりに,そのポストに別の方を推薦しましたが,それは先方から断られてしまいました.
また,この時,私の出身大学であったY大学のS教授からは,2年後に教授ポストが空くから,そのつもりで準備をしてくださいとも,内々にいわれていました.
さらに,Y県の産業技術センターのMセンター長からは,自分の後任として,私を推薦したい,私がそれを希望すれば,いつでもセンター長になることが内々に了解されているとのことでした.
さて,どうすればよいのか,海外留学,2年後のY大学,すぐ就任が可能なY県産業技術センター長,このなかから一つを選択することになりました.
そして熟慮の結果,私が選んだのは,最前者の道でした.
その後,しばらくして再びO校長から呼ばれました.
どういうわけか,その時は,よく解らなかったのですが,かれは,教員名簿を指さしながら,自分のスタッフとしての「学生主事」の候補について,私の意見と評価を求めたのでした.
私は,なぜそのようなことをなさるのかを尋ねないままに,素直に,その自分の意見と評価を述べましたが,その時のO先生は,大変ありがたいと思っておられるようでした.
ここで,また,人生上のふしぎなことが起こりました.
私が,「この方が,それにふさわしい人ですよ.間違いありませんよ!」と推薦した先生が,その直後に,校長室にやって来られたそうです.
本人としては,それまで就任していた「寮務主事」の退任あいさつをするつもりで,校長に面会にいったのですが,その場で思いも寄らぬ「学生主事」への就任を打診されたからでした.
ご本人が,その学生主事への就任打診を受けて,本当に吃驚したといっておられました.
この時,なぜO校長が,このような対応をなさったのか,これは,私が,ドイツ,アメリカから帰国してから,当時のH学生主事からよく事情を聞いて,ようやくその真相を理解することができました.
その真相とは,このH学生主事が,自分の後任として,私を強く推薦していたそうであり,それに対して異論が出ていて,そのためにO校長が逡巡されたとのことでした.
かれなりには,かなり悩まれたそうですが,その結果が,上述の私への海外留学への勧めに結びついたように思われました.
そんなこととは露知らず,私は,母の危篤,死を看取るなかで,その出発を3カ月遅らせてドイツ,アメリカに出発しました(出発を後らせたことで,始末書を書かせられました).
今想うと,この選択は,大正解であり,世界を観て,そこから日本と自分を観ることがいかに大切であったかを身に染みて体験することができました.
そして結果的に,その高専のスタッフラインから離れることになったことが真に幸いとなりました.
なぜなら,一路,光マイクロバブル研究と開発に取り組むことができるようになったからでした.
運命は,じつにみごとに,そして,ふしぎなほどに巧妙に切り拓かれていくのですね!
そして,アメリカから帰国したのが,1995年の8月31日であり,この約1か月前に,日本高専学会が創立されていました.
あれだけの『改革プラン』における準備をしたのだから,せめて,創立すること,呼びかけ人に参加すること,創立後の諸々のことを知らせてほしかったのですが,この創立メンバーからは,何の連絡や情報も寄せられませんでした.
「まことに,そんなものなのか?」
と思いながらも,そこはしっかり我慢して,日本高専学会への入会申請をしたのでした.
共に,平会員としての始動でした.
さて,久松先生は,この設立の呼びかけ人の一人になって,熱心に木更津高専のみなさんに入会を呼びかけられたことが,同高専の山下哲(日本高専学会会長)先生の追悼文において紹介されています.
こうして,久松先生と再会したのが,第二回日本高専学会年会の時でした.
そこで,木更津高専の一般科目の先生方が,「特別研究」という大変ユニークな授業をなさっていることを知りました.
木更津「特研」の創造
この取り組みの素晴らしさを聞いて,まず思ったことは,私どもが仕上げた『私たちの高専改革プラン』において,一般科目の問題が抜け落ちていたことでした.
そのことを痛感させるほどに素晴らしい取り組みを知って,大いに反省させられました.
なによりも,バラバラになりがちな一般科目の先生たちが,みんなで取り組んでいることがユニークであり,素晴らしいと思いました.
同時に,「探究心に火をつける」という,学生たちの自主研究をさまざまな角度から指導して遂行させるという,非常に魅力的な教育実践をなさっていることを聞いて,これは,高専教育を牽引していく未来型の教育のあり方を提示しているとも思いました.
折から,いくつかの高専において「創造演習」などの授業が開始された時期でもあり,木更津高専一般科目の先生方の先進性を強く認識させられました.
また,久松先生を通じて,同校のさまざまな先生方と知り合いのなり,大変ユニークで深い付き合いをするようになりました.
次回は,久松先生との交流が,さらに深くなっていったことに分け入ることにしましょう(つづく)。
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