追悼・久松俊一先生(4)
 
 前記事において示した私の追悼文の第三節の後半部分を再録します。

 3.  源流は「私たちの高専改革プラン」注(1)

 

・・・そこでは,集約した,それぞれの文書の検討は上手く進んでまとめられたのですが,案の定,その提言については,みな頭を捻ってばかりで,何も良いアイデアが出ないままに23日の最終日の朝を迎えました.そのまま解散か,と暗雲が漂っていたのですが,ふと,私の頭のなかに次のアイデアが浮かんできました.

「これだけ,みんなで考えてみても,よいアイデアが浮かんでこないということは,どういうことであろうか?それは,私たちが,高専の未来像を豊かに描くことに長けていなかったからではないか!そうであれば,それを研究する組織を自分たちで創ればよいのではないか!」

こう思って,

「みなさん,私たちで,高専のことを研究する学会を創るのは,どうですか.みんなで学会を創りましょう!」

こういうと,最初は,みなさんポカンとされていて,なにも言葉を発せられませんでした.しばらくして,その意味がお解りになったのでしょうか,「そうだ」,「それはいい」という声になって全員の賛同に至りました.

これが,日本高専学会誕生のきっかけであり,源流におけるエピソードだったのです.

少々引用が長くなりましたが,この『改革プラン』の発行,木更津での教育研究集会での高評価と賛意を得て,日本高専学会の創設へと発展していったのでした.


 注(1)全国大学高専教職員組合・高専協議会:『私たちの高専改革プラン』,1994.


 今でも、前日の夜と、この日の朝のことは鮮明に覚えています。

 「なぜ、あれほどに議論を重ねても、よい提言案が出てこないのか?

 それぞれの主張については、その意味をよく理解できたことから、理屈の筋は通っているものの、それらを止揚するには、どうすればよいのであろうか?

 明日は、どう議論を進めればよいのか?」

 このようなことを考えていると、なかなか就寝することができませんでした。

 本プロジェクトの会議の3日目の朝を迎え、討議を再開しました。

 まず、高専の専攻科設置について、前記3)の対立問題を再度検討し、それを解消する方策として、①専攻科設置は各高専において全教職員の討議を踏まえて決定する、②専攻科設置によって、高専の今後において明るい見通しが得られるようにする、➂高専生と保護者の意見を参考にすることが確認されました。

 続いて、第4章の「高専の未来ーそのかぎりない発展をめざしてー」の議論に入りました。

 本章は、(1)視点と(2)提言の2つに別れています。

 いずれも、今日においても非常に重要な内容を有していますので、それらを紹介しておきましょう。

 (1)においては、次の3つが示されています。

 1)高専30年の総括を踏まえて

 2)高専成長論の立場に立って

 3)高専危機論の解明を踏まえて

 おそらく1)のような視点に基づいて総括的文章を示したのは初めてのことであり、それは非常に重要なことでした。

    なかでも、その総括を踏まえて学んだ最大の教訓は、少なくない困難と深い矛盾に満ちた高専教育の現場において、それらを自治の精神に基づいて一コマ、一コマと民主的に改革していくことの重要性を確信したことでした。

 2)その観点から、高専教育と高専生を全面的に発展させるという立場から、その困難と矛盾を再把握し直し、そこに、わずかであっても、そして小さなものでもあって「光り輝く長所」が生み出されてきたことに注目したのでした。

 この高専全面的発展論を基礎として、たとえ不利なものであっても、それを独創的に解決していく知恵と工夫によって十二分に有利なものにたくましく変えていく、そこに豊かな醍醐味を覚えるようになっていったのでした。

 その観点がより鮮明になっていったのが、3)の高専を「専科大学」へと名称変更しようとして大騒動が起きた時でした。

 当時の国立高等専門学校協会の幹部は、高専の設置基準を変えないままで、すなわち、教員自治を認めず、校長の先決体制を維持し、教員と学生の研究を保障せず、少子化,大学進学率の増加,産業構造の急変を理由にして危機感を煽り、その不合理を押し通そうとして、2代にわたって文部大臣の記者会見を行うことまでして、その突破を図ろうとしたのでした。

 その破綻は、当時の内閣法制局によって「大学でないものを大学とは呼べない」といわれたことにありました。

 そんなことは、最初から解っていたはずだ、と思われますが、そこには、教員に教授会の自治を与えたくない、すなわち、自らの先決体制を確保しておきたかったからでした。

 そのことは、この名称変更の頓挫に際に、一部の校長からは「教授会自治と研究の保障を認めたらどうか」という意見が出され,それでまた議論が紛糾したことが、当時の議事録にきとんと示されていました。

 このような騒動に振り回されずに、教育の現場の諸問題の解決に努める、この貴重な尽力によって、高専は破綻せずに、今日に至る発展を得ることができたのです。

 しかし、今日の高専においても、この校長先決主義と、それを取り巻く校長従属の保守主義が未だに蔓延っており、それが高専と高専教育の全面的発達の小さくない障害となっていますので、その改善と解消が切に望まれています。
 
校長先決主義の呪縛(じゅばく)

 私は、大学院修士課程を修了して琉球大学理工学部の助手として2年間を過ごしました。

 それは、沖縄が祖国に復帰して、それは2年が経過したころでした。

 車は右側通行、バスに乗った時の停車合図は、紐を引っ張って行っていました。

 見るもの、食べるものが新鮮で、魅惑の「明けもどろの地」でした。

 そして、沖縄には単身で赴き、次の赴任地の徳山には、二人で行くという幸運にも恵まれました。

 私が沖縄から徳山の高専に移った最も大きな理由は、修士時代に専攻していた水理学の研究をしたかったことにありました。

 この移動をしていなかったら、私の乱流研究も光マイクロバブル研究もなかったことになりますので、私の運命も大きく変わっていたのかもしれません。

 高専に移って水理学の研究室および実験室づくりに新鮮さと幸運さを感じていました。

 その高専に来て、ふしぎにおもったのが、校長の存在が非常に大きいことでした。

 琉球大学時代には学長に会ったこともなかったのですが、高専に赴いた最初の日に、校長面接があり、「しっかり研究せよ!」という薫陶を受けました。

 それから、しばらくの間、高専の状況を観察していると、校長の存在が、大学と比較して意外に大きいことが解りました。

 予算権、人事権ほかすべての権限が校長に集中していたことから、それに靡(なび)くもの、従属するもの、そして極めて少数でしたが反発するもの、などの方々がおられました。

 教授会の自治が認められない環境においては、このような人々を産み出すのかと奇妙さを覚えました。

 また、周囲の教員のなかには、「高専は教育機関であり、研究をするところではない」と堂々と主張する方もいましたが、そのなかで初代校長は、初対面の私に向かって、いきなり「しっかり研究せよ」といっていただいたことにはうれしさを覚えました。

 この初代校長のJ先生は、私の大学時代の工学部長でもあり、学園紛争における団交において唯一まともな発言をなされていた方で、それを誇らしく思ったこともありました。

 また軍隊においては二等兵であったことから相当にいじめられていたそうで、そのせいか、校長として赴任された10年間において、一度も日の丸掲揚をなされなかった気骨のある方でもありました。

 しかし、教授会自治のない、研究の自由のない高専においては、それによって生まれた少なくない障害が横行していました。

 それは、組合の活動家自身にも知らず知らずのうちに浸透していて、そのことが、次の2つにおいて定着していたのでした。

 ①高専と高専教育を民主的に改革する十分な方法を知らない。

 ②高専と高専教育改革の展望を大きく、深く描くことができない。

 そのことに気付いたのが、上記のプロジェクト会議の最終日を迎える前夜のことだったのです。

 「そうか、高専の未来に向けての提言を出すことができない、ということは、それを考えたことがない、不慣れであった、ということではないか!

 そうであれば、その機会と機関を自分たちで作ればよいのではないか!」

 昨夜来、ずっと考えてきたことが、その紛糾していた会議の席で突如閃いたのでした。

 「みなさん、私たちで、高専と高専教育を総合的に研究する学会を創りませんか?
 
 その呼びかけは立派な提言の一つになりますよ」

 こう発言すると、みなさんは、しばらくの間、沈思黙考されていたようで、そのうち、一人、二人と、その提案に賛同する意見が出るようになり、やがては、それが全員の賛同になっていきました。

 こうして、『改革プラン』における「提言1」が誕生したのでした。

 次回は、その提言の内容に深く分け入ることにしましょう(つづく)。

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 大王桃太郎トマト(緑砦館3)