白河の関

 芭蕉一行は、江戸深川を出発して約2か月を経て、ここから「みちのく」といわれる白河に辿り着きました。

 ここに到着した芭蕉は、ようやく旅心が定まってきたという思いを文に残しています。

 白河といえば、最も有名なのが「白河の関」です。

 奈良時代から平安時代のころまで、人と物資の往来を取りまった関所があり、ここからが「みちのく」といわれていて、この関の跡に佇んで、芭蕉も、その旅心を振り返ったのではないでしょうか。

 奥の細道へと深川を旅立ったのは3月27日でしたので、この旅程は春から初夏(しょげ)に向かう旅路でした。

 その2か月を簡単に振り返ってみましょう。

 芭蕉とその弟子の曽良にとって、みちのくへの旅は初めて、深川で弟子たちや友人たちに厚く見送られたものの、その旅は心細く、不安に満ちていました。

 豪勢な旅をするほどの金はなく、毎日、旅先の宿や食べ物を探しながらでしたが、そのなかにこそ、

 「不易流行があるに違いない」、

 「その旅のなかでこそ、自らの句魂に触れることができるのではないか」

と考えられていたのではないでしょうか。

 こう考えながらの旅立ちであり、その不安な心境を、鳥が啼き、魚の目には涙と詠んだのでした。

 その3日目には、日光東照宮に到着して庶民がにぎわう中での参拝を済ませました。

 さすが、家康の威厳が示されているとは感じたものの、それらは、かれが求めていた「不易流行」とはまるで異質のものであり、ここでは、わずかに一句を詠んだだけでした。

 「このような世間に、わが心が流されてはいけない。何のために、わざわざみちのくの細道を旅するのかが解らなくなってしまう!」

 こう思って、かれらは、日光の奥にあった裏見の滝に向かい、そこに安置されていた不動明王の傍で修行を行いました。

 そこには、先ほどの猥雑とはまるで異次元の水と時間とが現世とは超絶された空間がありました。

 身も心も清めるために、この時空間が必要であり、ここで、これから始まる不易流行を求める旅の最初の修行がなされたのでした。

 数日後(江戸の深川を出発して7日目、4月初旬)、芭蕉の一行は黒羽(栃木県大田原市黒羽)に到着しました。

 ここで弟子の浄法寺桃雪らから大歓迎を受けて、なんと13泊14日の長逗留をしてしまいました。

 芭蕉は最高の聞き上手、話し上手ですので、弟子はもちろんのこと見知らぬ地域の人までとも親しくなって、宴会と話会の花が咲き続けたのではないでしょうか。

 ここで、芭蕉らは、「旅は情け人は心」の温かい人情を分かち合ったのでしょう。

 おそらく、これも「不易流行」の「一つ」だったのかもしれません。

 まるで夢のような「おもてなし」を感謝しながら、4月下旬になって黒羽から白河へと徒歩で向かいました。

 この間の距離は、せいぜい45㎞程度ですので、芭蕉らの足では2日もあれば目的地に到着するはずです。

 しかし、その白川の関に佇んだのは5月下旬という説もあり、その間、どのように旅をしていたのかはわかりませんでした。

 途中、那須塩原からは那須温泉も近いので、この辺りを訪れていたのかもしれません。

 私も、この那須温泉を学会の帰りに研究室のみんなと一緒に二度訪れたことがありました。

 たしか「那須白雲荘」とかいう名の共済のホテルでしたが、今は、どうやら終了しているようですね。

 ここで学会の疲れを癒し、革靴のままで近くの那須岳登山をしたことを思い出します。

 私が、大学院修士課程の時のことでした。

遊行柳

 さて、芭蕉らは、黒羽から白河に向かう際に、那須の荒れ野を通って行ったようで、その途中に那須芦野にある「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」を訪れています。

 この地を尊敬していた西行法師が訪れていたことから、あこがれの人の想いを偲んでみたかったのでしょう。

 この二本の柳の木の下にある石碑には、次の西行の歌が刻まれています。

 「道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」
 
 折しも、芭蕉らがここを訪れた時は、田植えの時期だったようです。

 そこで田植えを行う早乙女たちの姿が美しかったのでしょうか、芭蕉は、次の句を詠んでいます。

 田一枚 植えて立ち去る 柳かな
 
 おそらく、田圃一枚を田植えする早乙女らに見惚れて暫くの時を過ごされていたのでしょう。

 もしかしたら、少し前の黒羽での少女や娘たちのことを思い出されていたのかもしれませんね。

 
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遊行柳(HPもうひとつの那須芦野より引用)

 森村芭蕉も、この地を訪ね、次の句を詠まれています。

 植え継がれ 柳の奥や 結ぶ夢

 この柳は、芭蕉が観た当時の柳ではなく、その柳の奥には、西行と芭蕉が観た柳があったことを考えさせる句といえます。

 柳といえば、わが家にも、その小径があります。

 裏庭に生えていた柳の枝を切り落としたものを、前庭に持ってきて小道を作り、その脇にそれを並べて立てていたら、そこから根が生え、枝も葉も出てきたことで小径ができてしまいました。

 三歳のときの孫のユッツが、この小径を通るのが好きでした。

 この柳、新緑の季節のなかで東北の柔らかい日差しを浴びて、さぞかし鮮やかに風を通しているでしょう(つづく)。

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わが家の柳の小径(前庭)